リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ホビット 決戦のゆくえ』を見た。

ゆきてかえりし物語

J・R・R・トールキンによる『ホビットの冒険』を映画化した三部作の最終章。原題は「The Battle of the Five Armies」であり、人間、エルフ、ドワーフ、そして闇の勢力を含めた大戦争シーンが描かれる。


湖の街・エスガロスを襲ったスマウグ(ベネディクト・カンバーバッチ)はバルド(ルーク・エヴァンス)によって倒された。しかし街の被害は深刻であり、復興資金として約束の富を分配してもらおうと、生き残った者たちはエレボールへと向かう。そこへ軍隊を引き連れた闇の森のエルフ王・スランドゥイル(リー・ペイス)もやって来た。スマウグの死を聞きつけ、エルフの宝を取り戻しにやって来たのだ。戦争を望まないバルドはトーリン(リチャード・アーミティッジ)に和平を申し出るが、権力と財宝に憑りつかれ彼は頑なに申し出を拒否する。その姿に恐れたビルボ(マーティン・フリーマン)は彼らの探し求める秘宝「アーケン石」を渡すことかできずにいた・・・

登場人物が喋りすぎているきらいはあるし、アルフレドの描写などはいかにもしつこい。またボロミアとは違い、仲間の死に関してはその決定的場面を見せないなど、作品の性質上仕方ないとはいえ残念な部分は確かにある。キャラクターは入り乱れ物語は複雑な様相を呈してきたがゆえに、144分という上映時間ですら駆け足に思え物足りないのも問題点だろうし、編集の関係は特に「公開までの時間が足りなかったのでは?」と思わせる部分が多い。そういうわけで、単純にアクション・アドベンチャーしていた1作目が『ホビット』シリーズにおいては1番面白いと言えるのかもしれないと僕は思う。



しかしそれでも、全体を通してこのシリーズはやはり素晴らしい。『ロード・オブ・ザ・リング』がそうなったように、この作品は今後ファンタジーを語る上で、アドベンチャー映画を語る上で、そして怪獣映画を語る上でも映像技術の進化を語る上でも避けられない作品になっていると言って差し支えないと僕は思う。
ファンタジーとしてのビジュアルが素晴らしいのはもはや言うまでもない。見せ場に次ぐ見せ場の連続である楽しいアドベンチャーであるという点についても言葉にする必要はない。スマウグが暴れ狂い、死と炎を地上に降らせる姿を見れば、これが恐るべき怪獣映画であるということも否定できないはずだ。そして『ホビット』は、これらを3D、そしてHFRという技術を用いることによって、より効果的に画面を彩らせている。HFRには賛否両論あるであろうが、混雑した画面でもアクションを鮮明且つなめらかに見せることができており、うまく機能している場面も確かにあると僕は思う。
3Dは当然奥行き、距離感の表現において有効利用されている。もともとピーター・ジャクソンは合戦シーンであろうとも位置関係を把握させるのがうまいが、本シリーズでは特に、高低差がうまく利用された場面設計をしている。本作で言えばまさにクライマックス。トーリン、アゾグ、レゴラス、ボルグが雌雄を決する場面において際立つ。これはやはり、この表現こそ見所なのだという表れなのだろう。ピーター・ジャクソンは単に中つ国の世界を焼き直したのではない。10年前にはできなかったことに挑み、そしてまた一つの到達点として、巨大な壁を立ててしまったのだ。



その他にも見所はいくらでもある。おそらく登場人物中でも最強レベル集団による激戦は笑ってしまうくらい燃えるが、やはり本作は「五軍の戦い」に尽きるであろう。初めて登場するドワーフ軍が見せる雄姿。壁を突き破るトロル。相変わらず大好きな生首&首チョンパ(ヘラジカの斬新かつ納得すぎる使い方)。とにかく見せ場は多く用意されている。だが実のところこの戦いは、その開戦までの経緯こそが最も重要だ。
発端は旅の目的でもある「故郷の奪還・再建」からであった。トーリンは国の再建と権力、財宝へ執着する。人間は竜に破壊された街の再建をかけ助けを乞い、さらに我関せずと決め込んでいたエルフは財宝のため訪れる。ここで言語の通じ合う種族同士の衝突が起こる。『ロード・オブ・ザ・リング』同様、登場人物は財宝や権力、欲にどうしようもなく負けていく。
そんな彼らを繋ぐもの。それは愛であり、友情であり、勇気である。それを体現するのが映画独自のキャラクター・タウリエルであり、そして、主人公であるビルボだ。この男が何故この物語において主人公であるのかは、何故『ロード・オブ・ザ・リング』の主人公がフロドであり、何故サムとメリーとピピンが仲間に加わったのかという事と一致する。世界を救うのは、力ではない。それは友達を大切に思う心であり、そのための勇気を持つことであり、どんぐりを庭に植えようという、ささやかで見落としがちな、平和と故郷を愛する心なのだ。ビルボだけが高低差をもろともせず種族間での交渉をもたらすことができるのもそのためだろうし、シリーズ6作ではどの作品にも、ちっぽけなホビットが仲間のため危険を顧みず勇気を出す姿に、周囲の人物が驚嘆する場面があるのも、ホビットがこのシリーズの主人公たるゆえんだろう。
また『王の帰還』においてアラゴルンが王となった時、彼は「フロドのために」と言って真っ先に敵へ向かった。そしてトーリンも王としての尊厳を取り戻した時、同胞ために先頭を立って駆けたではないか。彼らは英雄だろう。だが彼らが英雄であるのは、戦場の名誉故でも特別な運命の元に生まれたからでもなく、仲間ために戦うからではないか。



どんぐりのエピソードが伝えることは、原作の原題でもある「ゆきてかえりし物語」としても重要だ。ホビットたちはほぼどんな状況でも故郷へ帰るという、どこか牧歌的な気持ちを忘れない。本シリーズにおいてそれはドワーフたちと重なり、また対比される形で出てくる。ここで無視できないのが原作は2つの大戦の間に書かれた物語という事であり、トールキンには従軍経験があったという事だ。
著者本人は象徴として読まないでほしいとも語ったらしいが、この時代背景がトールキンに『ホビットの冒険』を創造させる理由の一つとなったというのは、訳者の瀬田貞二も解説しているところである。多くの者が戦いによって傷つき死ぬ物語に対し、トールキンは「ゆきてかえりし物語」という副題を付けた。トールキンがそこに託した思いは、『指輪物語』を通し(こちらはサムが「戻ってきただよ」と言い幕を閉じる)、時を越えピーター・ジャクソンとスタッフ、キャストの手によって映画となり、そして今また『ホビット』3部作によって円環的に繋がった。



10年前のことを思い出す。2004年2月14日。『王の帰還』公開日。人生を決定的に変えた日だ。あの日のように・・・とはさすがにいかないが、それでもまた中つ国を見せてくれて、ちゃんと楽しませてくれるなんて、こんなに嬉しいことはない。今この3部作を終えてとにかく思うのは、本当にただ、ありがとうという事だ。ありがとうピーター・ジャクソン。本当の旅の終わりはきっとSEEになると思うけど、とりあえずこの言葉を捧げて、記事を終えたいと思う。本当にありがとう。大好きだ。