リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『海街diary』を見た。

時よ、あなたは止まらずとも美しい。

月刊フラワーズ」に連載されていた吉田秋生による同名漫画の映画化。監督は是枝裕和。主演は綾瀬はるか長澤まさみ夏帆広瀬すずら。

鎌倉に暮らす幸田幸(綾瀬はるか)、佳乃(長澤まさみ)、千佳(夏帆)の三姉妹の下に、彼女らがまだ幼いこと家を出て行った父親の訃報が届く。葬儀のため山が手へ出向いた彼女らを、異母姉妹となるすず(広瀬すず)が出迎えた。身寄りのなくなったすずに、幸は自分たちの住んでいる家に引っ越してこないかと提案する。すずは申し出を受け、鎌倉で四姉妹として生活することとなった。

脚が印象的な作品である。長澤まさみが演じる次女の、脚のショットから映画が始まった時は単にサービスなのであろうと思っていたがそうではない。本作は脚を重要なモチーフとしている。それは是枝監督作では特徴的な、歩くという動作にも当然関わってくることである。誰と誰が一緒に歩くのか、どこを歩きどう撮るのかというのは、やはり本作においても重要であったように思う。
そして他にも例えば走ること。サッカーをすること。靴下を脱ぐこと。ストッキングを脱ぐこと。マニキュアを塗ること。素足のまま浜辺ではしゃぐこと。足跡を残すこと。こういった脚にまつわる事柄が本作では頻繁に登場する。そしてその中でも最も目を引いたのは、泥の跳ねた広瀬すずの脚である。その脚に意味があるわけでも個人的な趣味があるわけでもない。ただ雨の日に泥が跳ねたというだけのことが、何故だかやたら魅力的に見えたのである。



もう一つ、肉体的な魅力の一つに、おでこがある。髪を頭の上で束ねた広瀬すずもそうだが、やはり綾瀬はるか演じる長女が常におでこを出しているということに注目すべきであろう。まずはそのおでこの美しさ自体にすばらしさがあるのだが、しかし綾瀬はるかの、母親と父親の不在故に常に毅然としつつも表面の笑顔を絶やさないその姿は、「不在」を描き、登場する女性にはおでこを出させつづけた小津安二郎作品における女性と重なる部分がある。
小津の名を出し「不在」について語らずとも(ちなみにカメラの緩やかな動きをとってみてもそうなのだか、根本的には小津と似ているわけではない)、本作に立ち込める死の匂いというものは見逃せない要素であると思う。法事から始まる本作は3つの死が作品全体を覆っており、幸やすずだけでなく、姉妹は皆死による不在を抱えており、その不在を抱えつつも、家族として生活していくというのが本作の物語であったように思う。生活とは家や食事、そして人であり四季であり、これらがまさしく日記のように積み重なってゆく。家に置かれた漬物のように、あるいは梅酒のように古いものは古いままで残され、しかし日々新しくもなりつつ、積み重なるのである。
後半、幸が母親に梅酒を渡す場面では「これで最後」となる古い梅酒と、新しい梅酒を同時に渡す。梅酒とは受け継がれてきた家でありその時間である。だから梅酒を渡すというのはそれらを共有することであり、また継承するという儀式でもあるように思えた。ちなみに梅酒や漬物に限らず本作に出ている料理はその多くが受け継がれているものだという点も面白いと思う。シーフードカレー、ちくわカレー、おはぎ、しらす丼、そして姉妹みんながお世話になった食堂。これらはすべて世代を跨いで受け継がれたものである。



共有し受け継がれていく食事=家族であるとすれば、外部の存在だったすずが梅酒を注ぐシーンは、彼女がこの家の一員となったことを自分自身の行動によって示しているといえるように思う。そして家族の身長が刻まれている柱にすずの身長を刻むシーンは、文字通り彼女が家族として家に刻まれたのだということに他ならない。柱に刻んだのは幸であるが、幸はおそらく、「一緒に住まない?」とは聞いたものの、もっともすずとの間に壁があった人物だ。冒頭にある父の葬儀にも幸は遅れてやってきたため、幸だけすずと「歩いて超える」という動作を行っていない。それが行われるのは終盤になって山に登るシーンにおいてである。幸はそう見えないように振る舞っているだけで、実のところいくつかの坂を「超える」ことを必要としていたのだと思う。ちなみに柱に身長が刻まれるシーンで僕は涙を流してしまったのだが、何故泣けたのかは実は自分でこうやって書いていてもよくわかっていない。よくわからないが、これは僕自身の思い出に触れたのではなく、その行為自体に泣いたのだと思う。その前に障子を張り替えるというシーンもあるが、直すのではなく刻むということが、何か感動的だったように思うのだ。



最後に四姉妹は浜辺を歩いていく。このシーンは素直に爽やかであるとは言えなくて、この家族がいずれ離散することは劇中でも予見されている。海は徒歩で行ける場所の果てであり、そのぎりぎりの淵を四姉妹は歩いているのだから、この家族があの家で家族としていられるのもそう長くはないだろうということを予感させる。しかし序盤で三姉妹が火葬場から見える煙を眺めていたのとは対照的に、ここで三姉妹はすずを見つめている。不在の死から生を見つめる視線へと変化しているのだ。だからこの家族は永遠ではないし歩いて行く先は無限ではないかもしれないが、しかしその歩いてゆく時間への愛おしさがここには溢れている。生も死も日々の中で受け継がれ積み重なっていく。この時間というものの美しさが、この映画には溢れていたように僕は思う。