リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ソロモンの偽証 前篇/後篇』を見た。

ぼくらの5日間裁判
宮部みゆき原作小説の映画化。生徒役はオーディションによって選ばれ、主演の藤野涼子は本作がデビュー作であり、芸名を役名と同じくした。他、EBiDANの板垣瑞生E-girls石井杏奈佐々木蔵之介永作博美黒木華小日向文世らが出演。監督は『八日目の蝉』などを監督した成島出


1990年12月24日深夜。中学生の柏木卓也が学校の屋上から転落し死亡した。警察は自殺と断定するが、ある日、教師2名と自殺した生徒の同級生で警察を親に持つ藤野涼子の元へ差出人不明の手紙が届く。告発状と書かれたその手紙には、柏木は自殺ではなく、同じ学校の生徒である大出俊次ら不良グループによって殺されたのだと書かれていた。証拠不十分のため告発状は黙殺されようとしていたが、破り捨てられた1通がテレビ局へと届けられたため、マスコミが事件のもみ消しを図ったとして学校へ押し寄せる。マスコミの報道に振り回された挙句、真実は不明なままの事件に対し、藤野ら有志で集まった生徒ら数名は、自分たちで裁判を行い、真実を明らかにしようとするが・・・

「1990年 12月24日」という字幕と共に映し出される光景。ビルの半分を画面両端に配し、雪の降った街並みが中央から奥に広がるその画面が扉の開かれた法廷であるかのように見えるのはおそらく偶然ではない。なぜなら私たちが傍聴しなければいけないのは生徒たちによる裁判だけではなく、彼らが日常的に感じ、痛み、生きていることについてなのだからであろう。回想がこのショットから始まるのはそのためだ。また藤野涼子をはじめとし、度々生徒たちの顔がアップで映しだされるのも印象的だが、それもまた本作が生徒たちにとっての今を映し出そうとしたからであろう。結論から言えば、彼らの顔や眼差しは確かに印象的で、本作の試みは成功していたと思う。




まず前篇についてだが、これが思った以上に面白い作品であった。この面白さの理由は、いくつかのシーンがホラーとして演出されていたからに他ならない。確かに、一人の死によって学校から家庭、つまり子供たちにとっての世界であるが、そこまでを不穏さで呑みこんでしまう物語なのだから、ホラーのような演出がなされるのは当然と言えるかもしれない。白眉であったのは保健室で藤野涼子越しにカーテンが揺れ、そのカーテンの隙間から石井杏奈演じる三宅樹里がふと顔を覗かせる場面である。このシーンが前篇を引っ張ったと言っても良いと僕は思っている。もう一つそのようなシーンを挙げるなら、小日向文世演じる校長が死んだ松子の家を訪ねた際に喉から発した不可解な音も強力な引力となっていた。偽善者と責め立てる場面を何度も繰り返す等いくつか不満な点もあるが、少なくとも前篇は満足できる出来であった。
対して後半は、前篇で溜めこんだ空気を爆発させぬまま終わってしまったという印象がある。大人たちが作り出した混乱や不穏さ曖昧さに対し生徒らが真正面から対峙するのだが、結局のところミステリともサスペンスとも違う半径5メートル以内の事実に収縮してしまったため、溜めこんだ空気が横穴から抜けていくような肩すかしを食らったのである。元々そういう話なのだからというのは分かる。物語に合わせて、彼らの姿をしっかり正面から受け止めよ、といわんばかりのベタな演出がなされたことも悪いとまでは言わない。だが顔のアップでも視線をうまく利用したりはせず、前篇のように推進力や決定打となるショットが見られないままで裁判が進行していったことを、僕は残念に思った。



ところで本作を見ていて気になってことが一つある。それは何故、裁判の開始日を8月15日にしたかという事だ。日本人にとって無視できないこの日をあえて選んだのは何故なのか。それが気になっていた。これに関して、後篇で参考人として登場する津川雅彦が、本編の流れとはほぼ無関係に太平洋戦争について語りだすシーンがある。いったいなぜこの役は、セリフも多くないというのに本筋と関係ないことを突然喋り出すのだろう。それが僕の中で気になって仕方なかった。
この疑問点については、次のように言えると思う。本作はある学校で起こった一つの事故を発端としているが、ここに「戦後日本」が覆いかぶさっている。この「戦後日本」というのは空気感としての戦後であって、例えば止められたのに止められず起こった悲劇への後悔、罪悪感といったような空気である。それがバブル崩壊直前に起こった事件へ、間接的に繋がる。というのも、主人公たちを苦しめるのは事故そのものというより、何故止められなかったのかという後悔と罪悪感である。事故を過去のものとし、忘れ、目をそらすのが本作における大半の大人であり、子供たちはその代償として、自らを傷つけながら戦うことになる。
大人になった藤野が当時の出来事を「語り直し」にやってくることとも重要だ。事件から20年以上経った今、裁判は「伝説」として語り継がれていると言うが、そこで藤野は英雄的な存在として語られており、現校長はその「伝説」のおかげでいじめが無いなどとのたまう。過去の悲惨な出来事や等身大の感情が「伝説」として現実からは離れた形で美化され語り継がれたことを、何故彼女は語り直すのか。ここに戦後70年を迎える日本の雰囲気を重ねるのは、考えすぎであろうか。



いずれにせよ、僕はこの物語は、大人たちや社会の間違いの受け皿となってしまう子供たちの悲劇とその中で生きる純粋さを描いた物語だと思う。先ほどの書いたように、社会にまで話を広げなくとも、親たちの描写からもそれは明らかだ。初めにも書いたが、本作は子供たちの顔こそ印象に残る作品で、多少の不満点はあるものの、この作品の狙いからすれば、それだけで成功しているといえるだろう。

ソロモンの偽証: 第I部 事件 上巻 (新潮文庫)

ソロモンの偽証: 第I部 事件 上巻 (新潮文庫)

ちなみに、後篇の前に前篇のダイジェストを挿入するのは別に構わないのだけど、何故そのダイジェストと本編の間に映画泥棒のコマーシャルを挟んだのか。これだけは担当者に問いただしたいところである。