リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『万引き家族』を見た。

オトンとボクと、時々、いもうと

是枝裕和監督最新作。主演はリリー・フランキー安藤サクラ松岡茉優、城桧史、佐々木みゆ、樹木希林ら。第71回カンヌ国際映画祭にて、最高賞のパルム・ドールを受賞した。


寒い冬の日。治(リリー・フランキー)と翔太(城桧史)の父子がいつものようにスーパーで万引きをして家路についていると、団地の廊下で少女(佐々木みゆ)が一人座っているのを目にする。以前からその姿を見かけていた治は肉屋で買ったコロッケを差し出し、母の初枝(樹木希林)と妻・信代(安藤サクラ)、そして信代の妹・亜紀(松岡茉優)が住んでいる、マンションに取り囲まれた小さな平屋へと連れて帰った。ご飯を食べさせた後、家までおんぶをして連れて帰そうとすると、団地では大声で罵り合う声が外まで響いていた。その声を聴いた信代は少女を母親の下へ返すのをやめ、自分達の家へと引き返すことにした・・・

万引きをするためスーパーへ入った父と子がまずミカンを手にする、というそれだけではなんてことのない些細な描写を最後まで忘れることが出来ないのは、一つに是枝監督の前々作である『海よりもまだ深く』において、主人公の象徴として「実も花もつけないまま大きく育ってしまったが、それでも何かの役には立つ」と語られつつ登場したミカンの木を思い出したからということもあるのだけれど、しかしなによりもそのミカンを発端とした本作全体の色彩・色調の設定に因るところが大きい。例えばオレンジ色はその後ダウンジャケットやパーカーという服装によって家族間で繰り返されているし、家族に当たる照明もしくは色彩処理についてもやはりオレンジ系の暖色が多く使われている。また祖母がほとんど執念めいた表情でミカンを貪ることについても家という場の確保がそこでは話されているのであって、なんてことのないはずのミカンの、その色が家族という共同体を繋いでいるのだ。そしてそのことが最も感動的に映されるのは縁側で花火の音だけを聞くシーンであろう。次々に空を見上げていくその顔には、まるで花火が反射しているかのような暖かい光が当たっており、もちろん現実にそんなことはありえないのだけれど、しかしより大きい俯瞰の画面に切り替わると、やはりその家族がいる家だけに光があたっていることに気付かされる。
そしてその色が当てられている一家が、集合体として描かれていることにも注目したい。そのことが顕著に表れているのはタイトルにもある、万引きである。この作品における万引きは例えばロベール・ブレッソンの『スリ』のような身体細部の分断ではなく、むしろ身体の動きを連動させるチームプレーによってなされている。冒頭では鏡によってその連携が図られているわけだが、鏡はその後、凛と亜紀が挨拶をするシーンや水着を買うシーンでも登場して家族としてのつながりを強調させているのだ。また、家族のうちだれかだけを分断してショットに収まるようなことはせず、孤独にはさせない画面設計もなされている。



しかし花火と海への小旅行を家族のピークとして、それからは家族のふりをしていた集合体のいびつさにほころびが生じ始めることとなる。祖母の死はその先駆けとなる出来事といえるのだが、ここでその遺体を埋める画面は暗くなっているだけでなく、不自然に青も見えている。本作はオレンジだけでなくこういった青や、例えば男女でそうめんをつつきあうシーンにおいては夕立で暗くなる前に黄色が見えたりと、色調に関してはやや強調された処理がなされており、それによってこの映画はただの「リアル」とは違うやり方で描かれていることがわかる。ちなみに服装の青や黄色に関しては、特に二人の子供を中心に見られる色でもある。
さて、祖母の死をきっかけとしてほころび始めた家族の生活は、ミカンによって決定的な破局を迎えることとなる。つまり翔太がわざと見つかるように盗んで逃げて、そして飛び降りた先に散らばるミカンを決定的な契機とし、この家族もまたバラバラになっていくのだ。この「バラバラ」とは、冒頭からこの家族を「集合体」として描いていたことと対応する。そして家族が検挙されてからは、画面上決して個人のみで映されることのなかった彼らも正面からの切り返しによって繋がりを断たれてしまうし、また面会のシーンでは語られる内容に合わせ、治が1人切り離されている。
ただしこれは突然の出来事ではなく、冒頭からあらかじめ予感されていた結末であった。その予感とは、特殊な関係によって構築されているという徐々に明らかになる真実のみならず、貧しくも明るい食事のシーンから既に現れていたように思う。食事の風景は何度か映りはするものの、しかし彼ら全員が一つの卓についているシーンはない。卓を囲むように座っていても、必ず誰かはそこから外れて座っているのだ。例えば凛を拾ってきたその夜は信代と翔太が卓から外れてコロッケ入りのカレーうどんを食べており、また麩入りのすき焼きを食べるシーンでは、はじめ凛が卓から離れた位置に座っているものの、近づいて食べ始めると今度は翔太がやや卓からは離れた位置にいることが切り返しによってわかる。『誰も知らない』でさえ一応家族全員が同時につける食卓はあったのだから、これは是枝監督が描く食事の風景としては珍しいものであって、つまり彼らが住む家はそもそもこの集合体を受け入れられるような構造をしておらず、不自然に詰め込まれた状態であるということが乱雑な様子と相まって画面から見て取れる。だから彼らはこの場所で家庭を築くことできないと、その食卓から既に予感されていたのである。



ところで、彼らは何故その家で集合体となりえたのだろうか。もちろん一つには共犯関係にあるからと説明できるけれども、問題は何故共犯関係を結んだのかということである。
まず前提として、おそらく名前、もしくは名付けることによるモノの所有化とでもいうべき現象があるのではないか。例えばパチンコ屋に停まる車の中で放置されていた少年を拾い、名を付けたことで少年は柴田夫婦の息子へと変化したのだろうし、ベランダに放置されていた少女ジュリはユリ、凛という名をつけられることで、やはりその夫婦の娘という状態へ変化している。またその夫婦だって本名を隠すことで自らの過去を手放そうとしていたわけだし、それは亜紀についても同じことが言えるだろう。名前・名称は必ず後から付けられ共同体におけるしるしとなるわけだが、台詞にもあるように誰のものでもなく、捨てられていた状態の者たちは命名という行為によって、新たな共同体としてのしるしを得たのである。
そのことを前提としつつ、それなりの期間を家族として過ごせていたのには彼らが顧みられなかった存在であるからだろう。翔太や凛はネグレクト、虐待の被害者であり、留学という嘘によって保たれている一家から抜け出している亜紀もおそらくはそうであろうし、治に信代、そして初枝も捨てられたという点ではやはり似たような思いを抱えているのではないか。だからこそ彼らはお互いを見つけ、家族の情景を思い重させるほどの共犯関係を結ぶことができたのであろう。



この家では家庭を築けないが、しかしこの家の他に居場所があるわけでもない。そんな彼らは結局バラバラになってしまった後どうなるというのか。骨折や火傷といった傷の共有に対し、検挙後の亜紀の手の甲の傷や凛の生みの親の額の傷が家族という結び付きを遠ざける。『父ありき』の変奏として『そして父になる』にもあった釣りという行為が、父親としての道を再度歩かせてくれるわけでもない。生活の残像を求めたのか、空き家へと向かった亜紀はあの後何処へ行くのか。冒頭と同じく柵の外を見つめる凛が、押入れの中で輝いていたビー玉をバラバラになったオレンジの変奏として拾い集めてみても、今度は柵の外に一体誰が居るというのか。しかし凛は外側にも世界があることを知っている。
これらの展開を利用して、例えば家族とは何であるのかとか、もちろん善だの悪だのといった無意味な問答や社会に対する批判を声高に叫んでみせるようなパフォーマンスはない。確かに「考えさせられる」などと言われがちな「余韻」とやらを残す終わり方ではあるしジャーナリズムも多分に含んでいて、この是枝監督の特性を上質とするか品がないとするかは好みが分かれるところではあろうが、僕はこの家族の些細に反復される生活の様子にこそ良さを感じたし、例えば凛の髪を切るシーンで、わずかに浮足立ったようなその脚の様子を捉えたカメラといった部分をこそ評価したい。