リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『あのこは貴族』を見た。

いまは見える

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山内マリコによる同名小説の映画化。門脇麦水原希子高良健吾石橋静河山下リオらが集結。監督、脚本を務めるのは本作が長編2作目となる岨手由貴子。撮影は『寝ても覚めても』などの佐々木靖之、美術は黒沢清作品を数多く手掛ける安宅紀史が担当している。
 
 
 
開業医一家の末っ子として生まれた榛原華子(門脇麦)は、20代後半になり家族から結婚を急かされるようになっていた。友人たちも多くが結婚し、焦って婚活に励むもさんざんな結果に終わってしまう。そんなある日、義兄の紹介によって青木幸一郎(高良健吾)という青年に出会う。会話も身なりも魅力的で、華子にとって理想の結婚相手だった。数度の出会いののち、プロポーズを受け入れついに幸せな結婚生活が始まろうとしていた矢先、華子が幸一郎の携帯に時岡美紀(水原希子)という女性からの、親密な関係を示唆するメッセージが届くのを目にする・・・

 

 

 

名著「映画術 その演出はなぜ心をつかむのか」で、塩田明彦監督は『秋刀魚の味』における「場」について解説している。岩下志麻が自らの好意を諦めざるを得なくなる場面で、彼女は無表情でありながらふとうつむくことによって内面の葛藤はむしろ強調され、気持ちではなく彼女の置かれている状況、つまり「場」が立ち上がっていると指摘しているのだ。ふらっと集まっただけの居間がいつのまにか法廷へと変換され、結婚話の進まない岩下志麻を被告人として処刑するかのような「場」が、人物配置や視線によって演出されているという。なるほど確かに、塩田監督のいうように『秋刀魚の味』のほか小津作品における役者と「場」の関係はそのようなものに見える。表現することではなく、存在すること。それがエモーションを掻き立てるのは、その通りであるように思う。

『あのこは貴族』を見て、このことを最初に思い出した。本作も特殊な「場」の立ち上がりが魅力的な作品だからだ。冒頭、貴族たちの会食シーンからそれはすでに見事である。恋人と別れた貴族の独身娘・華子は、その事実が親族に知られるや否や本人の意思とはほとんど無関係におあつらえ向きな相手とのお見合いをセッティングさせられてしまう。このとき、華子は特に何を言うでもなくただ目を伏せたりあいまいな表情ではっきりとしない返答を繰り替えずばかりなのだけれど、それゆえに貴族社会の息苦しさをありありと感じとれるだろう。そしてこれこそが、「場」が立ち上がるということではないのか。つまり、この会食は元旦に集まった親族同士の懇親の場でありながら、『秋刀魚の味』ほど残酷ではないにせよ娘の結婚に対して問い詰め決定する法廷のごとき場であり、さらにまた、貴族社会という特殊な場なのである。貴族社会という特殊な場については、敷居をまたぐという動作が教えてくれるだろう。一人遅れて会場に到着した華子は仲居さんの誘導により部屋に連れてこられるが、仲居さんは決して敷居を跨がず顔もわからない。当然のことと思うかもしれないけれど、ここに、扉が閉まるのをじっと見つめる貴族たちの顔のショットが入ることによって、敷居の先は立ち入ることが許されない特殊な空間であるということが印象付けられる。

『あのこは貴族』における空間はこのように閉じられているもの、区切られているものが多い。例えば彼らの主な移動手段たるタクシーは、誰かが運転してくれるということに加え、やはり運転手の顔がついぞ見えないままであることもポイントではないか。同じ車内であり声は聞こえていながらも、その空間は区切られている。華子の世界とはこのように区切られ、囲われた世界である。それは自立も自由も必要とされていない世界だからか華子には少々子供じみたところがあるし、外ではうまく振舞うことすらできない。例えば飛んできた帽子を拾おうと動いたりはしないし、指についたジャムを舐めとったり、また待ち合わせにもたいてい遅れてくる。とはいえ心地よさそうというわけでもないのは冒頭の会食ですでに分かっていることだけれども、華子の貴族らしさとはあからさまな豪華さではなく、このような空間内での在り方にあらわれている。

さてそんな華子はひとまずのゴールとして幸一郎にたどりつく。彼らが出会うレストランでの会話は本作の白眉といえる名シーンで、それはまさに、表情や視線、切り返しによって、公の空間の中に華子にとって特別な「場」が立ち上がっているからである。

 

 

では幸一郎はどのような人間なのかというところが第二章から語られる部分であり、そこには上京してきた平民・美紀も大きくかかわってくるだろう。彼らの関係性をあらわすものは階段である。はじめ、「内部生」の幸一郎はほんの少し段差があるテラスにいるし、また授業後、美紀にノートを貸してくれと頼む場面では階段を降りてくる姿が映される。つまり美紀は下の階層の人間であるということが、そんな高低差によって示されている。だから内部生たちとアフタヌーンティーをたしなむ高層のカフェも、下品な同級生に絡まれる同窓会の会場も、幸一郎と泊まり「女性が爪を切る姿を見たことがない」なんて会話がなされるホテルも、階層の違いから彼女にとっては違和感を覚える空間となる。反対に、幸一郎が相手であろうと下の階=居酒屋の席であれば、美紀にとって幸一郎は心細い東京で得た唯一の友人であったことも吐露できるだろう。

同じく貴族である華子の関係性はどうかというとこれも決して対等ではない。印象的なのは結婚に際しての二場面で、まずは華子が挨拶のため幸一郎の実家へ赴くシーン。華子はここで敷居をまたぐときに仰々しい礼儀作法に沿った所作で入室するのだけれど、入室から席に着くまでをじっくりと見せるのは、これが自分とは異なる空間=階層の中に入る儀式であることを、確りと示す必要があるからではないのか。

もう一つは結婚式そのものだ。両家族の集合写真を撮った後、幸一郎はすぐさま会場の外へと呼び出され何やら仕事の話を始める。『ゴッドファーザー』よろしく、仕事と家庭を扉が区切ってしまうのだ。幸一郎とその家族は、自分のいる階層の維持が目的であってそのためにすでに囲われている。幸一郎はなにより人の集まりによって身動きが取れない。それは二人の最後の切り返しからも見て取れるだろう。彼はもうすでに、降りられないのである。

 

 

華子は幸一郎と結婚したところで新しい世界が待っているわけではなく別の息苦しさに囲われるだけであって、結局大した変化にはつながらない。では華子と美紀の関係はいかなるものか。しかし考えてみると、二人の間には関係性とよべるほどのものは結ばれていない。にもかかわらず、華子を変えるのは美紀である。

というのも、今まで華子には美紀のような存在が見えていなかったからだ。「違う階層の人たちとは出会わない」という言葉の通り、きっと自転車に乗る人などは気にしたこともないに違いない。だが美紀を知ってしまったがゆえに、見えるようになった。ここで華子の世界、囲われた空間は静かに融解する。ふざけあいながら自転車を漕ぐ学生に向かって手を振るなんて行為が感動的なのは、タクシーに乗って移動しているときには目にも留めなかったなかったであろう人の姿が、今はっきりと見えていることがわかるからだ。かつて触れ合えなかった人々と同じ空間を共有している感触があるからだ。世界へのあたらしい視点。そしてそれを見つめる門脇麦の表情。序盤とは違う人間にすら見える彼女の目は、言葉よりはるかに雄弁だ。『あのこは貴族』とはつまり、華子の表情をめぐる冒険である。

 

 

というわけで、そんな表情をめぐる場や空間の生成、そして変化が素晴らしい作品であった。役者の存在感だけで十分に画面は見ごたえのあったことに対し、やや言葉が強すぎるきらいはあるけれども、それを差し引いても傑作といえるように思う。

さてところで、この作品で最も割を食っているのは田舎に暮らす美紀の同窓生たちである。確かに、彼らはしたないし不快な言動を発する品のない人間ではあるけれど、しかし寂れたシャッター街に囲まれる田舎でいばる三代目社長だって、それはそれで本人の意志に反し囲われた、どうしようもなく抜け出せない世界にいるのかもしれない。きっとあのこも貴族。

あのこは貴族 (集英社文庫)

あのこは貴族 (集英社文庫)