リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

最近見た新作の感想その16

『黒衣の刺客』
陶酔してしまうほどに画面が美しい映画である。モノクロの画面から始まり、色づきサイズを変えながら絵画のように美しい画面を見せる。しかしただ絵画のようだというのではなく、画面は常に、静かな動きをみせる。本作は現象が流れるように画面を「通り抜ける」映画だ。先ず風が画面を通り抜ける。すると、カーテンが揺れ、織物が揺れ、草木が揺れ、蝋燭の火が揺れる。それと同時に、音が通り抜ける。扉や門といった、音を遮り空間を閉じこめるものは排除され、屋内であろうと虫や鳥の囀りが響き渡る。風の音や川のせせらぎも、淀みなく画面を流れてゆく。そしてスー・チー演じる暗殺者もこの流れに乗ってくる。誰にも気づかれず忍び寄り、揺れる布のように彼女は存在している。そしてこの風のように画面を流れる暗殺者と同じ性質を持った登場人物は他にもいる。それが、妻夫木聡演じる鏡磨きの男であって、彼は水と共に画面に登場する。殺すことを目的とし風と共に現れる女と、磨き上げ美しく再生することを目的とし水と共に現れる男は、対照的でありながら同じく流れるという性質を持っているのであり、彼らはその性質の通り、何処かに留まるということをしない。だがそんな性質を持つ者同士も、ある場面で触れ合うこととなる。暗殺者の生身の肩に、鏡磨きの男がそっと手を置く。この束の間の、ラブストーリーと呼ばれるようなものではない、いうなれば生の交流とでもいうべき行為が非常に印象的だ。
さて、しかしこの作品、初めに書いたように美しいには美しいのだが、それと同時に美しさ即ち映画としての面白さとはならないのだなぁと思わせてくれた作品でもあって、「通り抜ける」画面の美しさと物語についてあれこれと思ったことを書いてはみたものの、実は見ている最中の感想は「その美学は大層素晴らしいけれども、若干退屈だなぁ」というものなのであった。白樺生い茂る雑木林での決斗の後に暗殺者が二手に分かれてそれぞれ歩いてゆくシーンなど好きな場面もなくはないのだけれど、基本的には本作の美しさにノレなかったのである。ホウ・シャオシェンの作品は他に『恋恋風塵』『珈琲時光』を見たのだけれど、今のところ『恋恋風塵』以外そんなに好みではない。



『神々のたそがれ』
思わず顔をしかめてしまうほどに画面の汚らしい映画である。全編モノクロで語られるこの作品の画面には常に糞尿、尻、泥、雨、唾、吐しゃ物、蛆、肉、血、死体といった数々の「汚らしい」有象無象が登場し、それらは霧に覆われ、ぬかるんだ地面と臭気を孕んだ蒸気によって見ているだけでむせ返るような世界のなか蠢いている。ではそんな世界においてどのような物語が語り紡がれるのかというと、本作の物語には筋のような筋がなく、ほとんど破たんしているようにすら見えるため僕は正直その部分について感想の書きようがないのである。だが退廃した世界で諦観し退屈した人間を描いているということはできるだろう。また原作であるストルガツキー兄弟の『神様はつらい』と併せて、恐怖政治や人類史を語ることもできるかもしれない。
しかし本作の魅力はそういったことではないように思う。物語に含まれた意味より何より、画面がこの作品は凄いのだ。画面の左右上下手前奥。全方位から物体が縦横無尽に入り込んでくる。それらの物体は生き物であろうが死体であろうが等しく無価値であり、退屈な世界に退屈なまま入り込んでくる。しかしその入り込みはあまりにもせわしいため、退屈が描かれているというのに画面自体は全く退屈せず、複雑で豊かだ。アレクセイ・ゲルマンの作品は『フルスタリョフ、車を!』しか見ていないが、あの作品も出入りの凄まじい作品だった。パンフレットに記載されている監督の息子へのインタビューを読むと、撮影現場ではアドリブを許すことがほとんどなかったというから、とんでもない線の設計がなされていたということになる。
ただこういった画面をいきなりぶつけられるととにかく疲れる。画面を把握しようとしてもゴチャゴチャと出入りする狭いようで広がりのあるこの世界においてそれは到底不可能だが、目は追ってしまう。実際僕は上映時間の長さゆえではなく画面の密度ゆえに、鑑賞後はかなり疲れた。だがそれは決して作品に対する不満ではない。身も蓋もない表現、唐突なギャグや行為に笑い混乱し、画面の密度に圧倒され疲労困憊する、大変面白い映画体験であった。体調が良い時にもう一度見直したい。

アレクセイ・ゲルマン DVD-BOX

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