リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『シン・ゴジラ』を見た。

日本のいちばん長い灯

ゴジラシリーズ第29作目にして、12年ぶりに国内で作られた作品。長谷川博己竹野内豊石原さとみ、市川美日子、大杉漣ら多数キャストが出演。監督・特技監督樋口真嗣。脚本・編集・総監督は庵野秀明


東京湾内で無人のボートを調査中だった海上保安庁職員が遺留物を回収しようとしたその時、突如大きな揺れが起こり、海面から水蒸気が噴出した。アクアトンネルが浸水し、大きな事故となったため、内閣官房副長官政務担当の矢口(長谷川博己)は首相官邸で情報収集に奔走する。すぐに首相(大杉漣)をはじめとし閣僚が収集され、対策案を協議することとなった。政府としての見解が固まりつつあったその時、彼らは驚くべきものを目撃するととなる・・・

早い映画である。セリフが早い。カットが早い。それが映画の流れを生んでいることには違いない。またアップも多い。人物の顔だけではなく、時にはカメラを机に載置しつつ、マイクであったり電話であったりという静止した物体の集合体を構図的に捉える。その物体とは時に人間達をも含むのだが、これらの画面が、すでに述べた早いと思わせるカットの連続、つまり編集によって矢継ぎ早に繰り出されている。
しかしその、撮影というよりは既に決まっている構図の編集が優先されている画面は、作品から動きを奪ってしまっている。それが顕著なのが人間達だ。彼らは良く喋る。しかしその喋りを繰り出す人間達の動きや振る舞い、つまり人間性については殆ど描かれていないため、過度にキャラクター的な台詞ばかりが先行してしまっているのだ。ここでの人間達は、与えられた台詞をこなす人形のようなものである。もちろん、喋りによって人物、ひいては空間が浮かび上がることもある。同じく早口でまくしたてる『ソーシャル・ネットワーク』がその一つであると言えよう。しかし本作の喋りは人物、空間を浮かび上がらせるのではなく情報の処理として扱われおり、そのため人間性は浮びあがらず、単調な顔面画面の繰り返しになっている。また動きだけでなく室内照明への気遣いの無さもあり、カットの一つ一つが緩い。ちなみに廊下の歩きや紙を手渡すこと、室内のカメラ移動もあるにはあるのだが、それがイマイチ機能しないのは、その動きが画面の広がりや人間性に結びつかないからだろう。
ただし、言葉の早さには少しだけリズムを感じる部分もある。だからいくら顔面に画面が圧縮されようともひどく退屈とまでは思わないし、顔面大会もここまでやられるとそれはそれで楽しくないわけではなかった。つまり、この作品はそういうルールなのだと思えばいいのである。人物の振る舞いや動きではなく、アップでとらえられた顔と台詞の前進が物語を、ひいては「労働」を推し進める。それが本作のルールなのだ。そう考えると、この映画における言葉の早さと長さ、それに手続き感覚は、特定の労働形態を持つ世界を表現する方法としては一つ、正しい選択と言えるのかもしれない。何故ならそれが彼らの労働形態なのだから、それに則った画面を仕立て上げるというのは、映画としてはどうかと思うけれども、それはそれで納得がいく理論でもある。つまり、行動や人物描写ではなく、台詞や顔のアップによって静止した「労働」という状態を画面に貼り付け、そしてそれを編集・構成させることで物語を前進させるのが、本作のルールなのだ。マイクや電話、パソコンに図といったものも、それがその物体にとっての「労働」になるからこそ、大写しにされているのである。
ただし、そのルールに則らず著しく画面を滞らせる人物が本作には存在していて、それは石原さとみ演じる米国大統領特使である。彼女はその場違いな見た目によってではなく、ルールに則っていないからこそ浮いているように思えるのではないか。例えば塚本晋也が他とは違う身なりでいても違和感なく見られるのは、彼がルールに則っているからだろう。このことに対し、彼女は米国側、つまりそれまでのルールの外部にいる人間だから良い、とすることもできるだろうが、それならば新しいリズムを入れ込まなければならないはずなのに、彼女が出ているシーンは単に浮いているだけなのだから、やはりそれは問題といえるだろう。



ところで、本作には振る舞いや動きがないと先に書いたが、実はまったくないわけではない。というかむしろ、人間達にはそれがないというだけで実は本作には多数の「動き」が存在している。まずは戦闘機や戦車だ。これらの物体は人間達よりよほど「動き」による労働をしており、また例えば攻撃開始のボタンが押されるか押されないかという状況で空中に留まる戦闘ヘリや、轟音を挙げキャタピラを回す戦車は、ここに出てくる人間達よりよっぽど自らの個性について「振る舞い」をしているように見える。新幹線だって例外ではない。終盤での、あっと驚くその利用のされ方はまるで蹂躙された仲間への弔いのようにすら見えるし、幾度となく崩壊の憂き目にあってきたビル群は骨を斬らせて肉を断つが如き活躍をしはじめる。つまるところ、人間以外の物体には、実に個性的な動きが用意されているのだ。もちろん、ヤマタノオロチ退治が如く血液凝固剤を投与する機械の勇姿も忘れてはならない。



そして当然、ゴジラである。62年ぶりに日本へ産み落とされたこの怪獣もやはり、その動きと立ち振る舞いによって存在していた。しかしこのゴジラの、何という禍ぶりか。ここまで否定とも肯定とも言い難い感想を書いてきたけれど、この一点だけでこの映画を好きと言い張れる。例えばこのゴジラを、震災や原子力と絡めて語るのは1954年版のゴジラが持っていた意志から考えて極めて自然なことであろう。しかし、だからゴジラは素晴らしい、などとは言わない。初代にしても、そしてこのシン・ゴジラにしても何故素晴らしいのかといえば、それは恐ろしくて禍々しい存在だったからに違いない。いくら意味を詰め込んだところで、その造形が未熟では話にならないのだ。だからこのシン・ゴジラが、その「シン」とは新ということなのか、それとも真か、はたまた神であるのか、いや意味として侵ともとれれば審ではない理由はどこにもなく、また震であったとしても驚きはしないだろうし、sinと解そうとも一向に不思議ではないような、つまり「シン」としか言えないような理解を超えた存在として、圧倒的な破壊と災いを引き連れ上陸する場面のすべてが素晴らしい。顔にミサイルを受けた後、硝煙の中から覗かせる顔の何と恐ろしいことか。どこか戦艦を連想させる、全方位に向けられた攻撃性の何と絶望的で、かつ美しいことか。はじめは意図のない目をしていた怪獣が、いつの間にか災いとしての目を持って上陸してきたときの恐ろしさを、誰もが目撃したであろう。ちなみに僕としては人間たちのドラマよりもはるかにゴジラそのものが持っている異形の哀しみに心を動かされ、だからゴジラによる破壊は確かに恐怖でしかないものの、同時にこの怪獣が人間達の作戦によって倒れそうになる度むしろ、可哀想ではないかという思いもこみあげてきたのである。特に今回は第1形態があることや、またゴジラ自身も自らの攻撃性に不慣れなのだと感じさせる描写から、よりそう思わされるのである。



ところで、本作にはほとんど民間人が登場しない。死はあるが、ゴジラを目撃したり避難する人間は初代のようには取り扱われず、描写というよりは状況の説明に留まっているように思う。それはなぜか。話を戻すこととなるが、それはつまり、「労働」ではないからなのだ。既に書いたように、本作は「労働」を切り取った作品である。それは会議であれ機械であれビルであれ、とにかく画面には「労働」のためになるものばかりが映されている。もちろんゴジラの「労働」とは破壊であるため、目に意図を持たない形態では海に帰ることとなるのだ。だから「労働」に関与しない者たちの視線は、殆ど画面に登場しないのである。
そこで思い出すのは労働というテーマを好んできた、宮崎駿であり、またその宮崎駿が、かつてテレビ放映されたドキュメンタリー番組において放った言葉である。それは震災直後、作業を中断すべきかという状況において発された、「こういう時こそ仕事をしなければならないんだ」という言葉である。庵野秀明宮崎駿。その関係性についてここで推し量るようなことはしないが、しかし本作はまさにこの一言と同じ理念によって支えられているように、僕には思えたのである。

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ ([バラエティ])

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ ([バラエティ])

ところで、石原さとみ長谷川博己が横に移動しながら話をし、それがある地点に到達するとカメラは俯瞰の為上昇をはじめ、最終的に画面右下端に石原さとみを配しながら線路を奥に映し出すシーンは一体何がしたかったのだろう。画面としてキマっているとも思えなければ、また画面端にどうしても人物を配そうとして人物から遠ざかるカメラの動きも気持ちいとは思えず、不思議な印象だけ残しているのだが。