リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を見た。

NEW HOPES
2005年に完結したスター・ウォーズシリーズの最新作。舞台は『ジェダイの復讐』から30年後の未来。キャストにはデイジー・リドリージョン・ボイエガアダム・ドライバーオスカー・アイザックらに加え、ハリソン・フォードキャリー・フィッシャーマーク・ハミルら、オリジナルキャストも参加。監督はJ・J・エイブラムス


遠い昔、遥か彼方の銀河系で。ファースト・オーダーと呼ばれる軍事組織が銀河の平和を脅かしていた。レジスタンスを率い、悪と戦ってきたレイア・オーガナ(キャリー・フィッシャー)は、唯一生き残っているジェダイである兄、ルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)の力を必要としていた。レジスタンスのパイロット、ポー・ダメロン(オスカー・アイザック)は惑星ジャクーに住む老人からルークの居場所を示す地図を受け取りに行けと言う命令を下され、その地に降り立ち、地図を手に入れたものの、その任務を嗅ぎ取ったファースト・オーダーの急襲を受け進退窮まったポーは、地図をBB-8というアストロメク・ドロイドに託し、カイロ・レン(アダム・ドライバー)に捕らえられた。BB-8はあてもなくジャクーの砂漠をさまよっていると、そこでレイ(デイジー・リドリー)という少女に出会う・・・

※ネタバレ



スター・ウォーズのように長い歴史を持つシリーズとなると、どうしてもスター・ウォーズと私、とでもいうよな部分から話をはじめないといけないような気がしてしまうので、まずはそこから始めるとする。91年生まれの僕は、世代としては新三部作世代なのだろう。ただし父親の影響もあってエピソード1公開時には既に旧三部作も見ており、つまり僕にとってスター・ウォーズという作品は、『ジュラシック・ワールド』の感想で書いたこととも通じるのだが、僕が今このように映画好きとして劇場に通っていること、映画を見るという行為の、基礎の基礎となっているような思い出深い作品なのである。
だがしかし、スター・ウォーズという作品が好きかと問われると、今の僕にとって特別好きな作品というわけではない、というのが正直な思いである。というのも、はじめに自分は新三部作世代であるなどとは書いたが、より正確に言えば、僕は『ロード・オブ・ザ・リング』世代であって、スター・ウォーズを見て得た感動よりも『ロード・オブ・ザリング』三部作の方が遥かに大い存在だったのである。というわけで、スター・ウォーズは、僕にとって思い出深い作品でこそあるものの、評価という点ではそれほど高いわけでもないし、オタク的に熱狂したというわけでもない作品だということになる。



さて、前置きが長くなってしまったが『フォースの覚醒』についてである。結論から言うと面白かった。おそらく監督のJ・J・エイブラムスには大きく二つの特徴があって、まず一つは再生力である。映画初監督作の『ミッション:インポッシブル3』においてもそうだし、『スタートレック』は言わずもがなであろうが、『スーパーエイト』ではスピルバーグの作品を、所々自身のタッチに変換しつつ再生していたではないか。そして今回の『フォースの覚醒』については、主に『新たなる希望』を踏襲しつつ、しかしただ昔懐かしのファンサービスにただ留まるようなことのない、新しいスター・ウォーズとして再生した、といえるのではないか。
新しかった部分とは何かといえば、まず一つに映像の進化に対するアプローチが挙げられると思う。それが最も発揮されたシーンは、もちろんミレニアム・ファルコン最初の出撃シーンである。このシーンは単に、懐かしのミレニアム・ファルコンがスクリーンに登場したというだけではなく、IMAX3Dというスペックを利用した、現代でも納得のいく映像としてスクリーンに復活しているのだ。つまり古いものと新しいものを融合し、再生しているのである。そしてもう一つ映像面で言えば、カイロ・レン対フィン&レイのライトセーバー戦も、今までの作品では見られなかった未熟さや木々が倒れるような荒々しさを感じさせて良い。そしてここにおいては、旧三部作よりむしろ新三部作が連想される。血統を考慮すれば自然なことであるが、カイロ・レンがどことなくアナキン・スカイウォーカー(ヘイデン・クリステンセン)を連想させる雰囲気を纏っている事や、惑星ムスタファーの変奏曲であるかのような舞台設定からそう思わせるのだが、それでいてやはり、しっかりと新しいことをやろうとしている。ただ再現するのではなく、再生しているのだ。
しかし映像面にもまして新しかった部分が本作にはある。それはレイ、フィン、カイロ・レンという、主役の3人だ。彼らの持つ個性を過去作のキャラクターと比べてみれば確かに類似点もある。しかし一人として「このキャラクターは過去作で言えば誰々に相当する」と言うことはできまい。それぞれに独立したキャラクターとして、新しい三部作を引っ張ってゆく存在として、本作でしっかりその存在を印象付けた。予告編の段階では「ハン・ソロが、チューバッカが」と騒ぎはしたものの、本作を見た後ではレイの主人公としての力強さと孤独について、フィンの人間らしい弱さとテンポの良さについて、そしてカイロ・レンの未熟さと荒々しさについて語らずにはいられないのではないか。ルーカスがかつて青春映画としてスター・ウォーズを創造したことと部分的には重なりつつも、新キャラクターたちはスター・ウォーズ以降の登場人物として、つまりは旧世代の記憶をとどめ、受け継ぐ存在として、ここに再生されているのである。そんな彼らが旧三部作のキャラ以上に魅力的だったこと。これが本作を成功させた最大の要因であろう。



続いてJ・J・エイブラムスの二つ目の特徴であるが、それはおそらくテレビシリーズを作る上で身に着けたであろう、話を引っ張る力である。表現が悪いかもしれないので言い換えると、話に引きつけさせる力、つまり、話を始めることがうまいというのである。エイブラムスの過去作品を見ても、どれも話の畳み方には多少疑問を感じる部分はあるが、その始まり方やインパクトに関しては、確かな実力があると思う。また話の始まり方の巧さというのは、例えばレイが朝食を摂るシーンや、その生活の様子を淡々と台詞なしで映し出すような表現からも感じ取ることが出来るはずだ。
つまり今回のように話を無理に畳む必要がなく、謎はとりあえず提示しておくという構成であるのならば、エイブラムスの起用はまず正解だったといえるだろう。そしてまた、基本的に「あるお宝」を巡る争奪戦の様相を呈することによって、アクションを止めなかったという事。異世界への冒険とスペクタクルを全体に配置しておいたことが、本作がエンターテイメントとして面白く成立していることの第2の要因であると思うし、それはエイブラムスの得意技でもあったように思うから、やはり本作の監督は、なるべくして彼になった、と言えるのかもしれない。



ただし失敗している部分もある。例えば、ハン・ソロが金を借りていたギャングから逃げる場面などは、エイブラムスの無理に話を盛り上げてテンションを引っ張ろうとするサービス精神が、わかりやすく裏目に出たシーンだといえるのではないか。あのシーンで見たかったのは、ラスターなる、出来の悪いデザインの怪物が暴れまわる姿ではないだろう。センスオブワンダーも、追いかけっことしての面白味もない、下手なシーンであった。
そしてもう一つ。これが僕は本作最大の問題点だと思っている部分で、ラストシーンが、あまりにもダサすぎるのだ。レイが隠遁生活を送っていたルーク・スカイウォーカーと再会する、というのがラストシーンなわけだが、おおよそ地球としか思えない風景の中、それをより強調するような空撮まで使ってここは撮影されている。そのあまりに気の抜けたショットぶりに、ここまで積み上げてきた期待と興奮は一気に崩れ去ってしまった。あのままエンドクレジットに移行されても、こちらの心はもうすっかりそんなテンションではない。ルークが登場するというのにあんなショット、シーンでいいのだろうか。これでエピソード7を終え、次回作につなげるというのだろうか。とにかくこのシーンに関しては僕は全く納得できていない。この問題に比べれば、キャプテン・ファズマのおいしい出番がないとか、マズ・カナタのデザインが面白くなくてルピタ・ニョンゴにメイクなりをさせた方がキャラクターとして立ったのではないかとか、そういったことは些細な問題である。



こういった問題を含みつつも最初に書いた通り、僕はこの『フォースの覚醒』については面白かったと思っているし、満足もしている。今年を始まりとして2019年公開予定のエピソード9まで付き合う準備はしっかりできたというわけだ。そして、これは映画の内容とはあまり関係のないことなのだが、初日の上映では、あのタイトルが出た瞬間に劇場で拍手が起こった。上映終了後に拍手というのは経験したことがあったが、タイトルと同時に拍手というのは今まで経験したことがなかったので驚いたと同時に、その熱は感動的であった。なのでこういった得難い経験のできるシリーズが復活したのだということを喜びつつ、次回作を待ちわびたいと思う。