リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『GODZILLA ゴジラ』を見た。

ゴジラ、いかなるものぞ
ハリウッドで制作されたゴジラ2作目。といっても前作であるローランド・エメリッヒ版との繋がりはなく、完全新作として復活。監督は本作が長編2作目となるギャレス・エドワーズ。主演はアーロン・ジョンソン渡辺謙。そしてゴジラ動作指導には稀代のモンスター俳優・アンディ・サーキス


1999年。日本で原因不明の大規模な地震が発生した。その被害は原子力発電所にも及び、研究者として働くジョー(ブライアン・クアンストン)は、まだ妻・サンドラ(ジュリエット・ピノシュ)が残っていると知りつつ、最悪の事態を避けるため制御不能になった原子炉への通路を封鎖した。15年後、軍で働くジョーとサンドラの息子、フォード(アーロン・ジョンソン会陰)は妻と子に恵まれ、つかの間の休息を楽しんでいた。しかしそこに、父ジョーが逮捕されたという話が飛び込んでくる。ジョーは事故から立ち直れず、侵入禁止区域に出入りしていたのだ。陰謀論めいたことを話す父にうんざりしていたフォードだが、説得され訪れた侵入禁止区域の中でジョーは謎の研究施設を目にする。そこでは芹沢博士(渡辺謙)らが巨大生物の繭について研究していたのだが、突然、15年前と同じような地震が起こりだし・・・

ゴジラ」というのはどうも、変わったシリーズであるように思う。というのも、例えば『トラック野郎』でも『座頭市』でも『007』でも『呪怨』でも何でもいいが、多くの場合シリーズの1作目といえば、そのシリーズのひな型になるような作品であるように思う。だが『ゴジラ』(1954)に関して言えばむしろ(シリーズを半分程度しか見ていないで言うのは少々恐ろしいが)、シリーズ中最大の異色作ではないかと思えてくる。核。戦争。科学。恐怖。破壊・・・。そんな諸々の恐怖と暗さに満ちているのが、初代のゴジラであった。だがその後作られた作品は、当時の社会問題に対する提起が組み込まれてはいるものもあるが、初代の雰囲気とは違うものが多い。全体の中では異色作であるはずの1作目だが、出自であるがために、そして何より、映画としてとにかく「面白い」作品であるがゆえに、「これこそ正しいゴジラ」として語られることが多いように思うのだ。それが、「ゴジラ」を変わったシリーズであると思った理由である。



実のところ、僕も初代が大好きだ。ただその理由は別に政治的背景とかメッセージ性とかとは別で、単純に、怖いからだ。とにかく初代はおそろしい。得体のしれない巨大な怪物に蹂躙される恐怖。それこそ僕が好きだったものだ。
では、本作のゴジラはどのような存在として復活したか。それは登場シーンを見ればわかる。ゴジラが姿を見せたとき、人々はその巨体を、声もなく、ただ黙って見上げている。これが本作におけるゴジラの立ち位置であり、どうもそれは、畏怖の対象であるらしい。津波とともにやってくるゴジラはただでかいモンスターであるだけではなく、人間の力の及ばない大自然か、神のような存在として描かれるのだ。そしてその神は、バランスを保つために現れたという。
対してMUTOは、人間が生み出した怪物だ。危険だとわかりつつ実験のためそれを利用し、ついに自分たちの制御が効かなくなったとき暴走。人間にそれを止めることはできない。そんな怪物が餌とするのは、原子力である。この2つの怪物が街をいとも簡単に破壊し、人間の力が及ばぬ戦闘を繰り広げるというのは非常に象徴的ともいえる。



これは僕の妄想だが、「見上げる」視点には神なるものへの畏怖だけではなく、「ゴジラ」という怪獣に対する、製作者側の尊敬、もしくは憧れの気持ちがあったのではという気もした。自分の映画に、あの憧れのゴジラが出ている。そんな気持ちも見えた気がしたのだ。おそらく、ゴジラ見上げる様子がまるで神々しい物を見つめるようであったことと、原発周りや日本の情景描写などを見るに日本自体への感心はほぼないのだとわかることから、僕はそう思ったのだろう。
しかし監督はそんなゴジラの胸をただ借りるだけでは、どうも気が済まなかったようである。ギャレス・エドワーズは、かなり自分の色もブチ込んできているのだ。例えばビジュアル面。本作でハッとするのは怪獣が暴れているビジュアルよりもむしろ、破壊の予兆であったり、既に破壊された後の風景で、この特徴は前作『MONSTERS 地球外生命体』という、破壊の傷跡をたどる異色ロードムービーでも存分に堪能できたものだ(もちろん低予算ゆえの策でもあるが、それを成功させることができたのはビジュアルをうまく見せられる人だったからだと思う)。背びれが徐々に光りだす場面や、厳重な扉を一つ筒づつ開けていくシーン。パラシュート降下する人影が見えたと思ったら後ろで、という、直接的な怪獣同士のぶつかり合いではないところにアイデアが見える。ちなみに予兆ではないが、橋の途中でMUTOと出会う場面の描き方も良かった。
そして最大のポイントはおそらく、怪獣同士の恋愛を描く点であろう。本作でも前作でも、なぜか怪獣同士の愛を描写することに監督はこだわりがあるようなのだ。しかも怪獣同士の感情に人間を重ねてすらいる。前作では、怪物の逢瀬と2人の恋。本作においては親子愛と夫婦愛である。「HENTAI」とでもいうべき性愛描写ではなく、人間に啓示を与えるようにすら見える恋愛を、ギャレス・エドワーズ監督は怪獣を通して描くのだ。何故なのかは、よくわからないけど。



ゴジラ以外にもう一つ監督が尊敬の念を込めたと思われるものがある。それは、スティーブン・スピルバーグだ。本作はスピルバーグの影響を受けたであろうシーンがいくつも見られる。全体的には「見せない演出」がそうなのだが、細かいところでも例えば、燃え上がりつつ走る列車や川から下ってくる残骸は『宇宙戦争』だし、船の下を潜るゴジラは『ジョーズ』。『ジュラシック・パーク』からは吊り橋の鉄網をゴジラがつかむ描写や、森の中での遭遇(ヴェロキラプトルとヘビの使い方)を拝借しているのではないかと思わせる。もちろん、もともとスピルバーグが怪獣好きで、『宇宙戦争』ではゴジラからまんま引用しているシーンもあるという事もあり、一周回って帰ってきたという印象も受ける。またこういった描写だけでなく、先ほど書いた「ただ黙って見上げる視線」というのは、いわゆる「spielberg face」からの引用なのかもしれない。



ただ残念ながら父と子、親子間の亀裂というテーマにおいても本作はスピルバーグらしさを感じさせつつも、そちらの方はあまりよくない。長いうえに描写は平凡かつ表面的で、人間たちの内面が掘り下げられていくようなシーンはほぼない。主体的にドラマを引っ張っていったり成長をするキャラクターもいないので、ドラマの視点が定まらず、見ていて退屈なのだ。ここはアーロン・ジョンソンが演じるフォードという主人公の父親を渡辺謙にしてしまった方が、人間と怪獣。自然と人間。親と子の亀裂というテーマがすっきりしたかもしれないと思った。
興味深かった点も書いておくと、本作は「引き上げられている」のが少し気になった。どういうことかと言うと、ゴジラやMUTOという怪物によってフォードは2度、地獄へと落ちていく。特に2度目は、雲の色合いも相まってまさに地獄だ。そこで彼は人類の存亡をかけた戦い(MUTOもフォードも愛する者のために戦う)に挑み、結果的にとはいえゴジラの協力者となり、勝利をつかむ。その結果彼は、上へ引き上げられることになる。人間として成すべきことを成せば引き上げられるのだという感覚が、面白いと僕は感じた。



最後にもう一つ残念だったのが、これは好みの問題で、ただそれゆえに最も残念だったことなのだけど、僕はやはり、ひたすらゴジラに蹂躙される人間の姿を見てみたかった。この映画に畏怖の念はあるものの、恐怖は足りないように感じられた。確かに大勢の人が死んだのは分かるが、死んだという実感に薄い。かっこいいゴジラでも畏れ多いゴジラでもなく、ただただ意味不明に破壊しつくす怪獣・ゴジラこそ見たい野である。「じゃあ初代を見ればいいじゃん」という話ではない。今の技術で最大限できる最強の怪獣による圧倒的蹂躙を見てみたいのだ。まぁ、それをやったのがスピルバーグの『宇宙戦争』であるし、そもそも目指しているところが違うのだから仕方のないこととはわかりつつ、なおかつ本作も面白いとは感じたものの、もっとこうだったらなぁ、ああだったらと思うことの多い作品でもあった。ただそういう「自分の見たいゴジラ」像を語ることができるのもまた、変わったシリーズであるが故なのかもしれないけれど。