『黒い下着の女 雷魚』(1997)
ひどく寂れた小舟に乗った男が、工業地帯近くの田園を隔てる淀んだ運河で明け方に魚を取っている。そんな、うすら孤独でぬかるんだ風景の素晴らしさ。そういえば瀬々敬久監督は、まぁあまり見たことはないのだけれども、少なくとも僕の見た作品はどれも風景が素晴らしい作品であったことを思い出す。それにしても『雷魚』は、どのショットも「見よ」と言わんばかりの力の入りようで、例えば極端に低い位置から撮ってみたり、もしくは画面手前に何か物を配置し層を作り出したり、あるいは画面の端にポツンと人を置いてみたりと、あまり物語の進行とは関係がないのだけれど、一つ一つのショットが絵になるものばかりだ。
しかしそれにもまして印象的なのはフレーム、例えば窓や鏡、もしくは電話ボックスなど画面内に現れる枠でである。赤が鮮烈に映えるラブホテルの殺人も、それが室内窓越しに起こるということが最も印象的であった。さてこの枠は主に、佐倉萌演じる主人公・紀子を取り囲んでいる。病院から抜け出した彼女はまずバスの中、不自然に画面中央に配されたポールによって囲われているし、その後も美容院の鏡、電話ボックス、そして例の室内窓と、さまざまな枠に囲われる。車の中に一人でいるシーンも3度ある。殺人を犯した後も同様、取調室では扉の小窓で囲われ、また死にざまは鏡という枠の中に収められる。はじめからコルセットで体を締め付けられていた紀子は、病室から抜け出しても常に枠に囲われ、結局行き場のないまま、最後には首を絞められ死ぬこととなる。
彼女の遺体は、竹原(伊藤猛)によって小舟ごと燃やされる。そこには自殺を幇助するようにして紀子の首を絞めた彼なりの、弔いの意図があったのかもしれない。あるいは、生きている間はついぞ果たされなかった解放を意図しているといえるかもしれない。しかし、狭いどぶ川の対岸にとどまってごうごうと立ち上がる黒い煙を見て僕が思ったのは、ただ単に、死体が手元を離れ流された、というものであった。
それはこの作品の持つ性質に由来する。例えば乗り物を乗ること、電話をかけること、工場の煙があがること、火葬場から煙が上がらなかったこと、鳩を捨てること、雷魚を捨てること、堕胎したこと、させたこと、殺すこと、殺されること…などなど、『雷魚』では風景や人物の動作、あるいは言動などが、何度も変奏される。紀子を囲う枠も当てはまるだろう。さてこれはあくまでも個別の出来事であって、閉塞感漂う空気のもとで同じ風景やキーワードを背負ってはいても、個々人を結び付ける契機とはならない。画面に登場する点は線にならず、ひたすら点である。これが、本作における性質だ。
中でも服装の変遷は特に注目に値するだろう。はじめ、黒い下着と白いコルセットをつけた女の病室には黒い服と白い花が置かれている。病室を抜け出した女はまず黒い服に身を包むが、テレクラで出会った鈴木卓爾を殺害した後、彼女は白い服に着替える。再び病院へと連れ戻されると今度は赤い花が部屋に飾られており、次に彼女は赤い服を着る。花と彼女の間には何の繋がりもない。しかし、画面上における色の移り変わりという点においては関連性がある。
この変奏というのは心理とは関係ない。閉塞感に包まれた磁場が引き起こすただの偶然の産物で、繋がりなどは期待されない。だから死体を燃やすという行為もその磁場における正常な動きとしか思えなかった。むしろ、すぐ動きを止め風によって地面を追うように流れる煙は解放や昇華といった印象を打ち消し、閉塞感を強調しているように見えたのだ。こう考えると、生き残った伊藤猛が電話ボックスの傍で赤い傘をさす女(のぎすみこ)と一緒に雑踏の中へ消えたあとのことについても、おのずと想像がつくだろう。
こんな画面の統一感は素晴らしい。黒く淀んだ、一縷の希望すら見えない空はいつだって最高だ。だが一方、画面内で起こることの、その中にいる人物たちの行動には物足りなさを感じた。何か一つ、はっと思わせるアクションがあればよかったのだけれど、空気に支配された緩慢さが目立つばかりで、そこが少し残念だった。