リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ハッピーアワー』を見た。

生きている、私たち

濱口竜介監督最新作。特別上映にて鑑賞。演技経験のない4人の女性が主演したにもかかわらず、第68回ロカルノ映画祭において最優秀女優賞を受賞したことでも話題になった作品。第89回キネマ旬報邦画ベスト・テンにおいて第3位を記録した。


神戸に住む30代後半を迎えた4人の女性、あかり(田中幸恵)、桜子(菊地葉月)、芙美(三原麻衣子)、純(川村りら)の4人は、近いうちに有馬温泉へ旅行へ行こうと話し合っていた。お互い気心も知れた親友同士。それぞれ家庭や仕事に悩みや不安を抱えながらも、休日に会うことを楽しみにしていた。ある日、4人は芙美が働くアートセンターが主催するワークショップに参加することとなる。しかし、その打ち上げの席で、純はある秘密を告白し・・・

5時間17分もの作品なのだから、その細部にも触れつつあれこれ書いていきたいところなのだけれど、しかしこの作品については一体どう書いていいのか、未だに整理がついていない。4人の女性を中心に据えた、事件性などはほとんどないと言っていいような物語にも関わらずその進行はスリリングですらあり、彼女たちの人生を垣間見る5時間は、数字から想像されるよりもぐっと早く過ぎ去り、幸福な時間を残していく。そして見終わった後に思うのは、ちょっとやそっとの映画ではない何かがここにはあったという、ぼんやりした感想と、確かな衝撃なのだ。だからまだ、この作品の詳細についてあれこれ書いていくなどということはできないと思うので、とりあえず感じたことについて書き連ねようと思う。



この作品で面白いと思うのはまずショットである。冒頭の、トンネルを抜けるケーブルカーに差し込む光がまず美しく感嘆の声を漏らしてしまうが、ただそれ以降の画面ではそれ自体が飛びぬけて美しいとか、完璧な構図によって撮られたこだわりの強いショットであるというようなことはあまり感じ「させない」。しかし、例えば会話の切り返しにしても単調にならないような工夫が凝らされている。それは真正面から捉えるというまるで小津のごとき手法のみならず、切り返しの中で他の人物の動きを収めていたり、カメラの角度やサイズを細かく変えてみたりしていて、それだけで面白い。ちなみに正面からの切り返しというだけで小津だ、と指摘してみるのはどうかと思う気もするが、しかし別れの予感を漂わせる写真や、次第に不在が強調されること、そして赤いヤカンからしても、やはりこの作品には小津という言葉を使ってしまう。
もしくは塩田明彦は著書「映画術」の中で小津の抑えた演出について「自然な「場」が立ちあがる」と著していたが、この『ハッピーアワー』にもその自然な「場」が出現しているから、小津だと感じるのかもしれない。つまり素人に対して「演技」をさせるのではなく、視線の誘導によって「場」を確立させ、「劇」を演じている人としてではなく、そこにいる人として存在させている。そして確かに存在している人間のドラマを、視線によって作り出された「場」が引き出すから、見ている側の感情を自然に引き出しているのかもしれないということである。
ちなみに、写真のシーンとその後にある旅館での麻雀と挨拶では不意に涙を零してしまった。それは出会いの挨拶という遊びに反して別れの予感が漂っているからなのかもしれないし、じゃれ合う4人の姿が、その予感を引き延ばそうと無意識に抵抗するかのようだったからかもしれない。
松葉杖を押さえる一瞬のショットにも驚かされた。なんてことはない、ほんの少しのショットである。しかしこの不意で少し暴力的なショットには、ブレッソンの『ラルジャン』で、零れそうなコーヒーを両手で支えるショットを見たときと同じ、「あっ、映画だ」と不思議な驚きに襲われる感覚があったのだ。他には、純の家へ訪ねてきた離婚裁判中の夫が窓を背に団扇を扇ぎだすというアクションも妙に印象的だ。それと多いのが、階段の上り下りだ。この作品は、やたらと階段が出てくる。さらにまた画面や動きとして多いだけでなく、4人の女性が住む空間というのは、不思議なことに階段を昇らないとたどり着けないようだし、幾人かは階段によって事故を引き起こす。このことについては後にまた述べることになる。



もう一つ見逃せないのが、乗り物である。ケーブルカーから始まるこの物語は、その後にも車や電車、それにバス、船と多種多様な乗り物が登場する。そしてその乗り物というのは、移動という映画にとって心地よい装置としてだけではなく、物語上においても重要な役割を果たしている。例えば乗り物に乗る、乗らないということで人物の間には線が引かれ、それは断絶や別れとなる。自らの意思とは関係なく動き出す乗り物が、関係性を否応なく変化させてしまうかのようだ。男女が空間を共にする車においては、常にその関係性の変化に対する予感がある。中でも僕が最も好きなのは、温泉旅行の後に純だけが乗り、やたら軋む音が響く中、不思議な同乗者と会話をするバスのシーンである。同乗者の不自然にも見える下車も面白いのだが、このシーンの会話によって、4人のバランスを取っていたのは純なのだということに注目したい。その純は、このバスのシーンの後、物語から消えることになる。では、その後他の3人はどうなったか。



『ハッピーアワー』の序盤には、不思議に長い時間を取って映されるシークエンスがある。「重心に聞く」という、怪しげなワークショップだ。物語は、ここを中心としている。つまり、このワークショップで語られる重心の話を出発点とし、登場人物たちは肉体によってこのテーマを広げてゆくのだ。
まずはじめに、純がある告白をする。そのことによって4人のバランスは傾きはじめるのだが、その後すぐ目に付くのは乗り物についてであろう。告白によって秘密を打ち明けた純は、電車に乗る寸前でホームに倒れこんでしまう。はじめ微笑みと共に4人を運んでいたはずの乗り物は、ここで姿を変え始める。そして、先ほど書いたように、純はバスの揺らぎと共に消える。その不在は視線によって顕著になり、3人は重心を失う。そして3人が重心を失ったのと同じように、彼女らの周囲にいる人物もまた重心を失っていく。こここで階段の話に戻るのだが、重心を失った登場人物たちのうち幾人かは、階段を降りる途中でその身のバランスを失い、怪我を負うことになる。重心を失って、純のように倒れる者も出てくる。
しかし、テーマを広げるために最も重要な肉体とはその足取りでもバランスの損失でもない。それは、顔だ。既に書いたように、視線の誘導により導き出された顔は、役者として「劇」を作り出すのではなく、そこに生きている人間としての「場」を作り出している。だから無表情でたどたどしく見えたとしてもそれが映画を阻害することはなく、むしろ彼女たちの人生を生々しく浮き出させているのだ。切り返しによって何度も捉えられるそれぞれの顔こそが、重心というテーマを基に広がりだした数々の要素に層を与え、4人の女性のドラマという枠ではなく、多くの人生を内包するような映画にさせたのだ。



5時間17分。なぜそんな長い時間をかける必要があったのか、その答えがここにあるような気がする。「事件」を描くのであれば、そんなに長い時間は必要ない。しかし「歴史」もしくは「人の営み」ということを描こうと思ったならば、そこにはやはり相応の時間が必要になる。『ハッピーアワー』で描かれたのは、幸福も不幸も出会いも別れも不自由なまま、それでも街の中で生きている人間の人生なのだ。そしてそういう人生が積み重なってできた歴史を総じて、皮肉ではない肯定の言葉として「幸福な時間」と呼ぶことができやしないだろうか。神戸の風景の端々に生きる人々は、そうやって作られた時間の上に、自分の時間をまた積み重ねて生きていくのかもしれない。

カメラの前で演じること

カメラの前で演じること