リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『アイアムアヒーロー』を見た。

世界じゅうを僕らの 血で埋め尽して
花沢健吾による大ヒット漫画の実写映画化。監督は『GANTZ』や『図書館戦争』の実写化で知られる佐藤信介。主演は大泉洋有村架純長澤まさみ吉沢悠岡田義徳ら。


冴えない漫画家アシスタントとしての仕事も恋人(片瀬那奈)との生活もうまくいかない冴えない男、鈴木英雄(大泉洋)。そんな彼の日常が、ある日突然崩壊した。変わり果てた姿で英雄に襲い掛かる恋人。街中ではゾンビ化した人間によるパニックによって大惨事が引き起こされていた。個人的に所有していた猟銃を手に取り、機能が停止した都市を必死に逃げる英雄。そこで比呂美(有村架純)という少女に出会い・・

自分の名前にはいったいどんな希望が託されているのか。僕の場合にしても、歴史上の偉人から一文字拝借してつけられた名前の意味は何度も親から聞かされているのだが、しかしそれを聞くたびに自分がどれだけその名に込められた希望を裏切り、踏みにじったかということも思い起こされるため、結果その名前負けした自分の姿に対し、暗澹たる気持ちを抱え沈んでゆく。それは本作で大泉洋が演じる鈴木英雄も感じていたことである。なにせ名前が英雄(ひでお)。読みかえれば「えいゆう」という、あまりに大きな名前に対して、十年以上前に獲得した漫画家新人賞佳作のトロフィーにすがりつき、未だ英雄どころか何物でもない漫画家アシスタントという暮らしをしているこの男は、自分を紹介するとき「鈴木英雄、えいゆうって書いて、英雄」と言う。これは皮肉で言っているのだが、別の面で、名前とは自分の本質を表すもの、という考え方もできる。例えば『オデュッセイア』においても、オデュッセウスは名前を隠したことにより身分を知られずキュクロープスの難を逃れたのだし、西洋の悪魔でも、名前を知らると自由を奪われる、という場面を見たことがあるだろう。また『千と千尋の神隠し』だって、千尋やハクは名前を奪われることで湯婆婆のもとに縛り付けられていた。だからここで英雄が敢えて名前の読み方を教えるのは、皮肉としてだけではなく、それが自分の本質なんだという願望に基づく行為であると言えるのかもしれないし、このことは英雄の妄想という形で何度も繰り返される。そしてまた、名前が重要になるのは英雄だけではない。長澤まさみ演じる藪という女性は、名前を偽るという行為によって自分の本質を乱す。そんな彼らが自らの名前をどう正面から言い切り、自己の本質を見つけるのか、これが一つ、物語の重要な点である。



鈴木英雄を演じたのは大泉洋。大泉といえばボヤき芸が有名であろうが、それに付随したもう一つの特徴として、「何も知らされぬまま引きずり回される魅力」がある。英雄は何もかもがよくわからないまま、非日常の中を引きずり回される。また面白いと思うのは、英雄が自分では何にも決定していないことである。タクシーに乗るのも富士山へ向かうのもスーパーマーケットでの行動も、全て自分一人で決定したとは言い難い。だがそんな男が自分で決定した、メロンパンを買うというわずかな気遣いが、ゾンビに襲われているというのにしっかりと落したコンビニのレジ袋を拾うという笑いだけでなく、まさかの重要な転換となる。小道具に関しては他にもトロフィーや時計等、上手く利用している部分も多く、しかもそれらは大泉洋という個性が持つセコさと油断ならなさを伴っているため、非常に効果的である。
そしてその英雄が引ずり回される最初のステップとなる日常の崩壊描写。これが素晴らしい。日常の風景の端々に非日常が顔を覗かせ、その非日常はいつの間にか日常を侵食し、生きていようが死んでいようが、人間は人間ならざるものへと変貌する。この、奇妙が絶妙に日常を食い尽くす様が面白いのだ。土佐犬のニュース。高熱で倒れる人々。腕から血を流す女とのすれ違い。軍用機の飛行。見慣れたアパートでの異形との遭遇。襲撃。炎上。パニック。唐突に車に引かれる人間。土足で家に上がるという非日常。昨日まで仕事を一緒にしていたはずの仲間の些細な変化。のどかな田園風景が並ぶ郊外での突然の惨劇・・・。『ドーン・オブ・ザ・デッド』で見た、あの一瞬の崩壊を、奇妙なズレとともに描いたこの前半部は間違いなく本作で最も素晴らしい部分である。特にパニックが起こった後、仕事場へと足を踏み入れるシークエンスのおぞましさは屈指の出来。もちろんこの前半についても文句なしの完璧な出来というわけではなく、例えば歩いたり走ったりというシーンをロングで捉えて背後や手前で殺戮が起こっているという画を入れてほしいとか、アパートがよく映るんだからその窓やベランダを活用して驚かせてほしいとか、そういった要望は尽きないが、続く高速道路でのカーチェイスも含めて、これだけのものが見れたなら、それでまず満足できる出来には十分になっている。
高速道路を抜けて森を通り、後半はお約束とでもいうべきか、スーパーマーケットでの死闘が繰り広げられる。ここではゾンビの個性も面白い点ではあるのだが、やはり見所はなかなかお目にかかれないほどの殺戮であろう。特にヘッドショットの多用はかなり凄まじく、ここは特撮監督神谷誠、特殊造形藤原カクセイの活躍が見事なのだと思う。『ブレインデッド』並の血まみれゾンビ映画として、『アイアムアヒーロー』はここに硝煙を上げた。
ただし『ブレインデッド』並といっても、あちらは多種多様なアイデアによる殺戮と異常なまでの血しぶきの効果で残酷と笑いを同居させていたが、それに比べると本作は只猟銃に弾を詰め撃つという作業の繰り返しなので、徐々に単調さが目立つという欠点がある。またゾンビの襲撃にしても、実は噛みつかれるという残虐さや人体引きちぎりという芸当はあまり見せず、こちらも些か不満が残る。ちゃちな武器を持ってゾンビに対応するという独特の間抜けさは、人間らしさを微かに残したゾンビの間抜けさと恐怖で相まって他にはない味わいを残していたと思うし、素晴らしい造形はたくさんあるのだから、バリエーション豊かなショックシーンで驚かせてほしかった。



とはいえ、スーパーマーケットの死闘は見所でこそあるのもの、重要なポイントは他にある。それは英雄が真に「えいゆう」になることを描いたシーンであって、ロッカーという狭い個室に閉じこもった英雄が、外からの助けを契機として、自らドアを破り、その悲惨な結果を何度も妄想しながらも、それでも自らの殻を破り世界へ突撃していくその姿が、物語をきっちり締めてくれる。彼はここで、ヒーローになったのだ。だからその後に続く死闘は残酷ホラーでも血みどろのスラップスティックでもなく、またロメロ的な方向とも違って、必然的にヒーローによるアクション映画となる。だからその真面目さとゾンビ映画の間に若干の食い違いが生じ、結果単調に見えてしまったのかもしれないが、しかし英雄の物語としてはこの鏡の配置されたロッカーこそ描くべきことであったのであって、その後の殺戮は、英雄(えいゆう)の祭壇に昇るための形式的な儀式のようなものであると僕は思っている。最後、柔らかな光の当たる車内で揺られる、疲労した英雄の姿がなんとも美しい。



ところで一つ、これはうまくいってないんじゃないかと思うことがある。それは有村架純演じる比呂美の扱いである。彼女は英雄を動かすきっかけとしては機能しているものの、彼女に付け加えられた設定。つまり、感染しきらないという部分は、一体どうなったというのか。これだけは最後までうまく扱いきれていないように感じた。また二人で森をさまようシーンにしても、『炎628』や『ウイークエンド』のように殺戮の映画では森を彷徨うというだけでいいものではあるのだけれど、しかしその森を活用しきれていたとは言い難い。しかしじゃあ、有村架純はいない方が良かったのかというと、それはとんでもない間違いである。有村架純は、可愛いというその一点において強烈な機能を持っている。本作は役者のチョイスも素晴らしく、珍しく若い俳優だらけなのに顔でも場が持たせられていると思うが、中でも有村架純は可愛いというその点か、もしくは光を吸い込むようなその目で、本作を引っ張っているのだ。