リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『思い出のマーニー』を見た。

君が思い出になる前に

スタジオジブリ最新作であり、米林宏昌監督の2作目。原作はジョーン・G・ロビンソンによるイギリスの児童文学。声のキャストには 高月彩良有村架純、松嶋奈々子、寺島進、森山良子、黒木瞳、更に北海道が舞台という事もあり、TEAM NACSも出演している。

札幌で暮らす12歳の少女・杏奈(高月彩良)は、持病であるぜんそく療養のため、夏の間、田舎にある親戚の家で過ごすことになった。内気で、周囲とうまくなじめず、一人絵を書くのを好む杏奈はある日、「湿っ地屋敷」と呼ばれる古くて大きな、今や誰も住んでいないお屋敷を見つける。不思議とその屋敷に心惹かれた杏奈は湖を超えその屋敷へとたどり着く。そこで彼女は、金髪の不思議な少女・マーニー(有村架純)と出会う。二人はすぐに打ち解け友達となり、度々お屋敷で会うことになるのだが・・・

公開初日に見ているにもかかわらず、感想を書かないままとうとう3か月が経つ。これは単に書こうという気分にならなかっただけだが、気分にならなかったというのは、この作品がつまらないとか、プラスにもマイナスにも感情も揺さぶられなかったという事ではない。それどころか、むしろ『思い出のマーニー』には少し涙を流してしまったくらいなのである。確かに、宮崎駿のような快感には乏しく、また『かぐや姫』のような圧倒もない。しかし、それらの作品とはまた違う魅力が、確かに存在していると思う。
『思い出のマーニ―』には、ハッとするような瞬間がいくつかある。まずは、初めて物語の舞台であり「思い出」の主役となる湿っ地屋敷が登場する場面だ。杏奈が坂を転げ落ち、その視線の先に彼女は屋敷を見つける。この流れは気持ちいい。舟もいい。不安定で大きく揺れることもあれば、心地よく浮かぶ時もある。この湖というのは杏奈の記憶や感情と密接に関係しながらそこに存在しているわけだが、それと関連して、杏奈が最後にマーニーを許し別れの言葉を交わす場面もまた素晴らしい。この場面ではなによりも感情が画面上において爆発している。ここで交わされる言葉については後に説明がつけられるようになってはいるが、それよりも僕は、理屈ではなく感情が弾けた様子にこそ心を動かされた。



後に説明がつけられる、と書いたが、僕はこれこそが本作で最も残念な部分であった。本作で起こる不思議な出来事は、説明がつくことによって納得できる形で「感動」に変わる。そしてその「感動」、つまり「私」という内側と「世界」という外側が重なり、「私は内側の人間」と話していたコミュニケーションに問題を抱える杏奈が、外側にこそ本当の居場所を感じ取れるという「感動」は、確かに話としては魅力的だ。だがそこに至るための納得は、僕にとってはあまり重要ではなかった。見る側のわがままとはわかっているけれども個人的な好みとして、腑には落ちない不思議な話のまま終わってくれた方が、好きではあったのだ。
しかしこの身を別にしてもこの「説明」、例えば絵を書いているおばさんから話を聞くシーンは、おそろしく退屈である。なぜ、観客が感じ取ればいい感情を口に出させ、あまつさえ回想と回想の合間で、杏奈とその友人につったったまま涙まで流させてしまうのだろう。本作は不思議で寓話のような話に加え、美術の力もあり、雰囲気や視覚だけで魅せることだってできたのに、何故説明に説明を重ねるのか。そこが非常に残念ではあった。事実この説明さえスマートにやっていれば、好みではないと言った話にだって感動できただろう。
また杏奈と彼女の母親に関するエピソードも不満が残る。杏奈と母親の関係性と葛藤についてはそもそもの問題設定の時点で納得しがたいのだけれど、終盤でその件を急に物語へとすべり込ませて解決させるのだから余計納得しがたいものとなっており、感動ではなく単に「処理したな」という感覚だけが残ってしまった。少なくとも、母親の方からあの話を切りだす必要はないだろう。例えば「包丁をうまく扱える」というような二人の関係を繋ぐ要素はあるのだから、それを生かしつつ、杏奈の方からさりげなく解決させてほしかった。
終盤の説明がくどいといえば『コクリコ坂から』もそうであった。本作のそれを『コクリコ坂から』程とは思わないが、なぜこうも「わかってほしがる」のだろう。嵐のサイロ、波の中での告白はドラマを語りつつも画面としての見応えがあるのに、このように結局説明で終わらせてしまうのはもったいなくないか。その辺、画面自体の推進力を監督は信じ切れていないのかもしれない。好みの話ではないとしても、この辺をうまくやってくれさえいれば、この作品を全面的に擁護することだってできたであろうに。



他にも、大岩のおじさんおばさんが杏奈に対して甘すぎることや、杏奈がボロボロの状態で発見されるにもかかわらず何も手を打たない等(十一が発見して運んだのだろうが、それならまず少女暴行として疑われてもおかしくない)、気になる部分は多い。杏奈のクラスメイトがプリントを届けにやってきた際の描写もおかしく、わざわざ母親に聞こえる声量であんなことは言わないはずだ。また信子が画面に初登場するシーンは、どうにも違和感があった。「ここでこのキャラクターを画面に出しておこう」そんな意図だけでできた、処理のためのシーンに見えたのだ。おそらくは人物登場のタイミングと、音の入り方のタイミングが関係しているのだと思う。



ちなみに、僕はこの信子が好きではない。「太っちょ豚」と罵られた彼女が、杏奈の抱える問題についてチクリと言い返した後すぐ「大人な」対応で返す様が、どうにも嫌だった。それは「いい子」に対する反感かもしれないし、それとは別の理由なのかもしれない。僕も昔は相当太っていて、からかわれることなんざ慣れっこであった。ただ、繊細さとは正反対にいる僕のような男であろうと傷つかなかったわけではない。信子は、あそこで正面からケンカすることも泣くこともなく、後で家に帰ってから泣いたという。どうしてそんな、正直にその場で怒りや悲しみを露わにしないのだろうか。
いやしかし、わかるような気もする。太っていて醜いなんて、言われなくたってわかっているのだから、今更そんなことで傷つきたくはないし、そう振る舞いたい。だけど、そう簡単には割り切れない。もちろんそんなことは杏奈が知る由などないし、逆に信子も杏奈のことを知る由はない。
傷つけたこと、傷ついたこと、傷つけた自分が嫌いなこと、傷ついた自分が嫌いなこと。その全てを救い上げるのは無理だ。『思い出のマーニ―』は、「わからなかったあなたの人生」を救い上げ「わかれなかった私の人生」を救い上げる。だがそれは、きわめて特殊な関係だから成り立ったのであって、杏奈は他人を思いやれる立派な人に成長したわけではない。外側の世界と向きあっていくのはこれからなんだということを示して、この作品は幕を閉じる。信子(彼女もまた親に嘘をついていた)とお友達になれるかどうかはわからない。学校でうまくやっていけるかもわからない。そのわからなさが少女の未来であるという点において、この映画が『風立ちぬ』や『かぐや姫』と全く違うタイプの魅力を放っていると思うのだ。

思い出のマーニー〈上〉 (岩波少年文庫)

思い出のマーニー〈上〉 (岩波少年文庫)