リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』を見た。

Shine On You

1986年から現在も連載中の荒木飛呂彦による漫画『ジョジョの奇妙な冒険』において、92年から95年の間に発表された『第4部 ダイヤモンドは砕けない』の実写映画化。監督は三池崇史。主演は山粼賢人、神木隆之介岡田将生新田真剣佑國村隼山田孝之伊勢谷友介ら。


日本のどこかにある町、杜王町。平和でのどかなこの町に引っ越してきた高校生の広瀬康一(神木隆之介)は新たなる出会いを楽しみにしていた。しかし早々に不良に絡まれた康一は、同級生の東方仗助(山崎賢人)に偶然助けられる。仗助は目に見えない力を持っており、康一はその存在に興味を持つ。そんな中、町では秘かに恐ろしい事件が起こり始め・・・

どう見ても日本とは思えない土地に間違いなく日本でしかない景観がねじ込まれ、どう見てもおかしな装いとしか言いようのない恰好の人物が画面を闊歩し、どう見てもおかしな「スタンド」と呼ばれる超能力が戦う。いったいどれほどの「おかしさ」が詰め込まれた作品であろうか。しかもこれらの「おかしさ」はその身を画面に馴染ませることなどはせず、そのまま残されているのだ。しかしそれが功を奏している。つまり、大前提として大ウソをつくことによって世界自体がおかしな異物として存在することとなるため、そこに映る人物もそうである事を望まれるし、普通ではないことが起ころうともそこに驚いてはいけないという前置きが出来上がっているのだ。だからこの作品においては無理に現実に合わせるであるとか、もしくはファンタジーとして作り込むようなことは必要ない。なぜなら異物でしかないことを前提としているのだから、それはそのまま異物として表現すればよいのである。結果出来上がったのは一見キッチュではあるけれども、原作の醜悪なパロディとしてではなく、あくまでこの作品内においてキャラクターが魅力的に動き回れる世界であり、そもそも『ジョジョの奇妙な冒険』という漫画のその絵自体が、コマと省略とデフォルメという漫画的な表現が非常にうまくもありつつ西洋絵画やボブ・ピークから影響を受けているような、元々リアリティともファンタジーともいえない独特なラインにあるものなわけだし、不思議な擬音も視覚的な感覚をあえて言語として表現した際にできるものなのだから、そんな漫画を原作とする実写映画として、本作が採用した方法は決して間違ったものではないといっていいだろう。



一見、と書いたのはこの世界の何もかもがただ「おかしな」異物ではないからである。例えばコントラストを強めることで、異物は異物として画面に馴染んでいるし、また美術の力もかなり大きい。特に後半の舞台となる虹村家は良く作りこまれた、豊かな廃屋空間である。ただしその豊かさとは、荒廃した雰囲気を作り出した美術によるだけのものでもない。この屋敷のホールにある階段を上った先にはL字に曲がる廊下があり、狭い部屋へと続いているのだが、さらにその奥には上の階に行くための階段が直線上に見えている。この直線を生かした動きがつけられることによって、いくらもない道でありながら画面には前後への広がりが生まれており、さらに狭さで画面が立ち往生してしまわぬよう、スタンド戦では上下と曲線の動きもつけられている。美術に加えこのような演出によって、屋敷の中に空間が創出されている。また前半の東方家においては、四方を取り囲むサスペンスに対し部屋と部屋との間の壁を壊して切り抜けるという、家ならではの設計が効いている。
さらに照明も非常に重要な要素であって、特に強く出ている黒は画面のアクセントとして以上に、ホラーとしての雰囲気を高めている。それは東方家の夕食というなんてことはないシーンにおいても無駄に黒いため不安になるほどで、些かおかしく思える部分もあるけれど、とはいえホラー方向に寄せたのは正しい選択である。それは漫画の原作者である荒木飛呂彦ジョジョを書く際に多くのホラー映画に影響を受けたということや、三池崇史作品らしいグロテスクな造形が登場すること、もしくは映画的な記憶を引きずり出させるということに留まらず、この作品の物語がホラー性を持っているために、ホラーの雰囲気が必要なのだ。そしてそのホラー性の中核を担うのが、家と侵入者である。
冒頭からある一家への侵入者として登場する連続殺人鬼のアンジェロは、それが家であろうとも体内であろうとも人知れず侵入し殺害する。つまり単に殺人鬼というだけでなく、普通の人々にとっては克服しえない実態不明の現象であるために、彼の存在はホラーになるのだ。またアンジェロが退場した後に登場する虹村家はホラーとしか言いようのない状況を抱えているわけで、家の中に隠された部屋と悲劇という点でゴシックホラーと言い換えても良いだろう。だからこの作品におけるホラー性とは、家を中心とする日常に潜む魔という、物語的な要請からきている。しかしそれでも完全にホラーとならないのはそれらに対抗する術を持った人物がいるからであり、そのために見通しの良い空間設計がなされているのである。



ところで、家と関連する事柄で本作の登場人物が繰り返し口にする言葉として、「父親」というものがある。ただし一言に父親といっても、仗助にとって、虹村兄弟にとって、アンジェロにとってと内容は三者三様であって、それは例えば食事を摂るシーンにおいても仗助は家で家族と、虹村形兆は屋敷で共犯者と、アンジェロは他者の家でというような違いがあり、家と家族に対する考え方の違いはそういった画面からもうかがい知ることが出来る。仗助は家族が良ければそれでよいとはじめ考えており、スタンドもアンジェロも彼には関係なかった。しかしながら「父親」代わりとなっていた良平が殺されたことにより彼はアンジェロと、そしてアンジェロのスタンドを引き出した虹村兄弟と対峙することとなるため、彼としては否応なしに外部へと向かわざるを得なくなるのだが、アンジェロは家族という内部を持たない存在であることに対し、虹村兄弟には彼らの家族というまた別の内部と事情がある。仗助は彼らを通して、自らの家族だけではなくいくつもの家族という内部に忍び寄る正体不明の外部を知り、家族や家、ひいてはそれらの拡大単位である町を守るという良平の意志を受け継ぐのである。
一方、常に外部へとしか動かない人間というのも本作には登場しており、それは広瀬康一である。原作とは違い転校生という設定になった彼はこの町に未だ内部を持っていないため常に外部へと働きかけざるを得なくなるのであるが、それはなにより彼が乗り回す自転車の回転によって行われる。人と人とが出会い、スタンド使いが出会い、引きあわされることとなるのは殆ど自転車の回転を通してなのである。もし形兆の言うとおり出会いが「重力」であるとするならば、この作品において最もそのことを視覚的に感じさせるのはスタンド使いと触れ合うたびに手放され倒れる自転車である。本作が家という主題と同時に出会いの物語として成立しているのには、この部分が大きい。



これらのように、物語が画面上のモチーフを通し映画として有機的に繋がるよう再構成された本作は、漫画原作の実写映画化としてベストな出来とは言えないかもしれないけれども、ベターな戦略を持って臨まれたということは間違いない。確かに無駄だったりテンポを削ぐようなカット割りはあるし、リアクションの過剰さも気になる点ではある。しかし、例えば必ずしも芸達者ばかりではない役者陣も総じてこの世界のなかでは個性を確立しており、特に虹村形兆を演じた岡田将生は素晴らしくキャラを演じている。そういった点ひとつとっても、単に捨て置くだけの作品では決してないのだ。続編が製作されるのか、それはまだわからないが、最後にちらりと姿を見せた吉良吉影、彼もまた家族の物語を持った人物であるわけだし、何よりこの方法論で語られるジョジョ4部が非常に楽しみである。というわけで、面白かったですよ。