リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ヘレディタリー 継承』をワーストに選んだ理由について

去る12月、例年通り新作映画ベストテンについて更新したのだが

今年の映画、今年のうちに。2018年新作映画ランキング - リンゴ爆弾でさようなら)、そこでワースト5位に『ヘレディタリー 継承』を選んだところ、ワーストに選んだ理由を聞かせてほしいとのコメントをいただいた。このブログにコメントが付くことは珍しく、せっかくのリクエストならば応えようと思ったのだけれど、鑑賞から時間もたっていたためずるずると引き延ばしてしまっていた。しかしついにレンタルおよび配信開始となったため、とりあえず再見して、ようやく感想を書くことができた。

 

 

さてはじめに断っておくと、確かに『ヘレディタリー 継承』をワースト5に選びはしたものの、だからといって駄作だと吐き捨てているのではなく、むしろ精巧に作られた作品だと思っている。例えば、冒頭ドールハウスの内面にカメラが寄っていくと、そのまま現実の人間たちのドラマがその内部で始まるという入れ子的構造には異様な空気が漂っているし、セットによる邸宅の撮影は美術面だけでなく、極端に引いたり上に位置するカメラや壁を無視した横移動といった、通常では考えられない画面づくりという点でも一役買っているし、円や三角を取り入れた造形に加え、四角形を画面に定着させることでまるでドールハウスの断面から中を覗いているような錯覚をも感じさせてくれる。また、幾度か登場する全景のショットのうち、特に序盤のいくつかはレンズの選択であろうか、まるでミニチュアを見ているような違和感を覚えるのだけれど、終盤悪夢的展開が強まるとむしろ家は実在の重みをもって映し出されるという倒錯具合も面白い。その悪夢的終盤に至る用意も周到だ。ちなみに今回見返してみて気づいたのだが、ピーターらが参加するパーティー会場にて、数人がパソコンで何かをみているのだけれど、それはフェルディナン・ゼッカ監督『ある犯罪の物語』(1901)の最後、犯罪者がギロチン刑に処されるというシーンで、いくつかある暗示のうちの一つである(ちなみに『ある犯罪の物語』は現在とまるで表現方法が異なる回想や、唐突に画面が反転したりと相当困惑させられる面白い作品だ)。音の表現については喉を鳴らす音よりもむしろ画面外から聞こえてくる音、中でも時計の音は頻繁に聞こえているにも関わらず時計自体は映らないのであって、つまりこれは彼ら家族にとっての音ではないのではないか、と思わせるところが面白い。

 

 

これら諸々の要素が、精巧に組み立てられることによって成立している作品であるということについて異論はない。ではなぜワーストに選んだのかという理由だが、むしろだからこそ、ワーストに選んだのだ。つまり、精巧に組み立てられた世界の中、掌の上で踊らされるようにしてあらかじめ仕組まれていた結末へ向かっていくという巧みな計算術は確かに手つきとして素晴らしいのかもしれないけれど、しかしむしろすべてが駒のように見えててしまって、ドールハウス的構造が洗練されていればいるほど、要素同士の繋がりにより真相が明らかになればなるほど作為がはっきりとし、秩序だった物語が浮かび上がってくる。

もちろんすべての作品は作為の上に成り立っているのだが、本作が殊更そう感じさせるの理由には閉じた世界であるということがあげられる。これは物語の構造上仕方のないことだが、ある特定の家族の話で、しかも舞台がほとんど家の中に限定されているとなれば、外の世界、つまり観客たる我々の世界とは遠い話でしかなく、しかもどんどんトラウマ的に内側へこもってしまう。個人的に恐怖とは外側への意識に依るものであって、例えば金字塔『悪魔のいけにえ』でも、近年の傑作『ジェーン・ドウの解剖』でも、個人的に最も恐ろしい『CURE』でも、すべて外側=世界へと恐怖がはみ出してきているから怖いと思うのである。だが本作はあくまで巧みに内側へと収束させていく話であり、秩序だっていればいるほど外側へ波及していくことがないとわかり、自分とは切り離された物語として鑑賞者的態度を崩すさず安心して見終えることができるため、結果怖さという点で期待値からは相当落ちてしまったのである。

 

 

もちろん、そういった類のホラーは駄目だというのではない。トラウマ的に精神を蝕んでいく作品であろうと傑作はあるわけだし、そもそも本作についても、期待とは違うというだけでそれを抜きにして見たとすれば、何度も述べているようにそつがなくよくできている面が多い。それに駒でしかないというのは本編序盤、ギリシア悲劇についての授業でも似たようなことが述べられていたりするので意図的な作劇なのだから、これはもう、趣味が違ったとしか言いようがないことなのだ。ただもう一点、あまり好みではない部分があって、それは本作が、アクションではなくリアクションの映画だということである。リアクションとはつまり恐怖に面した人間のリアクションなのだけれど、本作の画面は人物の顔面の占有率が高く、恐ろしい出来事に面したとき、アクションよりもリアクションのほうに時間をとっているのだ。しかしリアクションとは納得であったり説明という効果を果たすように思え、観客を誘導するには有効な手なのかもしれないが、本作の場合その比率が大きすぎるため、恐怖の増幅というよりは顔面のくどさのほうが印象に残ってしまった。これは、何か禍々しいものを見てしまった、という恐怖をも打ち消しているように思う。アレックス・ウルフはまだ作品にあった顔つきを見せているけれども、トニ・コレットはリアクションの熱量が高すぎる。そんなリアクションが何かあるたびにきちんと挟まれることによって感情を整理する隙が生まれているし、何より鬱陶しい。ただし終盤ピーターの周囲で狂気が爆発するシークエンスはほとんどリアクションを取る間もなくガラス窓をぶち破るというアクションがきちんと撮られており好ましい展開だった。

 

 

以上が僕の本作に対する感想であり、ワーストとしたのは前評判の高さや宣伝などからさぞかし怖いものを見れるに違いないと期待していた落差によるものであるが、それを差し引いてもそんなに面白いとは思えなかった、というのが正直な気持ちである。

最後にこの作品で僕が最も評価している点について述べたいのだけれど、それは死体のデザインである。死体が写される映画は数多くあれど、死体をインテリア的にデザインするというのはそれほど多いわけではないように思うし、そのデザインにも美意識というよりは悪意がある。チャーリー首から下なんか若干チープなところも含めて最高じゃないか。この容赦のなさは登場人物を駒的に扱うからこそともいえるかもしれないが、祝祭ムードが漂っているなかで見せられるとあまりにもひどい姿であっても不思議な感動があり、ここがあるおかげで僕としては家族にまつわる厭な映画という感想も持たなかったのである。というわけで今回はアリ・アスター監督の意図に乗れない部分もあったけれど、次回作を期待させるには十分な作品ではあったから、いつか地獄の底に叩き落としてくれるような映画を見せてくれると信じて待っていようと思う。