リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『呪怨 呪いの家』を見た。

今は昔・・・

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2000年にビデオ作品として発売され話題となり、のちに劇場版の制作、そしてシリーズ化されたJホラーを代表する『呪怨』シリーズの最新作でNETFLIX配信作品。監督は『きみの鳥はうたえる』などの三宅唱。脚本は『リング』など数多くの作品を手掛ける高橋洋と、Jホラー躍進の立役者である一瀬隆重。 

 

1988年。心霊研究家の小田島(荒川良々)は自身の出演するオカルト番組にて、タレントのはるか(黒島結菜)から「自宅で謎の足音が聞こえる」との体験談を聞く。録音してみては?というアドバイスをしたところ、後日事務所にテープが届いた。早速再生してみると、足音のほか、人の声のようなものも録音されており、さらにはるかは、最近恋人・哲也(井之脇海)の様子がおかしいと言う。哲也は結婚後の新居を探しており、地元で「猫屋敷」と呼ばれる一軒家を訪問したのだが、そこで「何か」を見たらしい。別の日、その「猫屋敷」で肝試しをしようと高校生の少女たちが集まっていた。その中の一人、聖美(里々佳)は最近越してきたばかりで、同級生に連れられるままその家へと足を踏みいれるのだが・・・

 

ちくま学芸文庫より刊行されている『幽霊名画集』に収められた諏訪春雄の論考によると、幽霊画において足が失われたのは早くは1600年代に書かれた古浄瑠璃の挿絵であるという。また足が描かれなくなった理由については、死者など超越的存在の乗り物として雲が使われていた影響か、地獄で亡者に手足を切り取られると信じられていた名残からであると考察している。さらに同書における河野元昭の論考によると、優れた幽霊画を残し後世に影響を与えた円山応挙が幽霊を無脚の存在として描いたのは、先行の幽霊画に倣ったか、白居易の詩にも登場する反魂香(立ち上がる煙の中に亡き人が表れる香。その煙により足は隠れることとなる)を意識していた可能性が高いからとしつつ、しかし重要なのは、普通の美人画のようでありながらも足を消失させることで霊的存在としてのリアリティーを具える、応挙の画風にあると論じている。

こうして無脚幽霊は生まれ、その認識は広まり、美術など知ろうはずもない平成生まれの僕にとってもごく自然に共有されていた。そして令和の時代に撮られた『呪怨 呪いの家』もやはり、幽霊とその足の間に重要な関係性がある作品であった。しかしここでは足は消えておらず、まるで胴体から切り離されたような、むしろ足という部位そのものの生々しい感覚をもって登場している。

 

 

幽霊の足は第1話から強調されている。はるかと哲也が自宅で幽霊と遭遇するシーンでは、幽霊はまず足のアップによってその存在を画面に現わし、続いて上半身のショットへ続く。続いて足が出てくるのは第3話で、ここでは幽霊の全身像は見えず、その存在はアップの足によってのみ提示されている。第4話も同様だ。このような足に対するこだわりは、本作の脚本を担当している高橋洋のモチーフであろう。それは監督作『霊的ボリシェヴィキ』や、脚本家としての代表作『リング』から想像できる。切り取られた幽霊の足は本作においても非常に不気味である。しかしより興味深いのは実は、生きている人間の足である。本作においては生きている人間の足もまた、画面上において胴体と切り離されるように映し出されている。

そのことが最もわかりやすいのは第2話冒頭の、聖美が性的暴行を受けるシーンであろう。ここでは呪いの震源地たる家で暴行を受ける彼女の、反抗する足だけが扉の隙間からその姿をのぞかせている。この悲劇は呪いの因果にとらわれるきっかけとなる出来事であり、実際聖美にとってこの日をきっかけに二度と元には戻れなくなるのだから、胴体から切り離された足のショットは、この世ならぬ存在と同期したこと、つまりは呪いを受けたことを示すものだといえるのではないか。

足のみのショットが意図せぬものであるとか、もしくはフェティッシュな欲望からくるものではないことは第5話との比較によって語りえる。因果にとらわれた聖美が自宅で客を取っているシーンにおいて足は、というか首から下はカーテンによって意図的に隠されており、しかもその後の切り返しによる視点では、そこにいるはずのない子・俊樹がカーテンに隠れる位置で座っている姿が見える。ここで聖美は、俊樹をかの家で受け取ったと話すのだけれど、その俊樹と聖美の首から下が、同じようにカーテンによって隠されているという類似は見過ごせないように思う。

このほかの人物の場合はどうかというと、例えば聖美を暴行した3人の少年、少女たちもやはり下半身は切り取られており、それは第1話、家に侵入し、「ここにする?」「ベットとかないの」と企ての輪郭が浮かび上がる会話シーンにおいてであって、ここでシーツのかかったテーブル下に置かれたカメラは、4人の足のみを映し出している。後に少女達は失踪、そして少年・雄大(長村航希)は聖美に引き寄せられ彼女の母を殺害し、最終的に聖美によって殺されることとなる。なお、雄大が風呂場で窒息死させられるシーンは第2話の反転というべきか、抵抗する足だけが湯船から外に出ている。

そしてそもそも本作の冒頭、つまり第1話最初のシーンを思い返してみると、主人公である小田島が初めて画面に映るシーンでも、彼の姿は窓にかかったブラインドにさえぎられ事務所へと向かうその足のみが画面に映し出されているではないか。のちに小田島は呪いの家とゆかりの深い人物であることが判明し、語り部としての役割を背負わされることとなる。

このように多くの登場人物が呪いの家と関わったことで下半身を切り取られているわけだけれども、興味深いのは幽霊の足を見る人物と、画面上で足を切り取られている人物はほとんど対応していないという点だ。それがなぜなのかは正直よくわからないが、足を見る人物たちは早々に消え去るのに対し、切り離された人物たちはたんに死ぬということ以上に長い年月をかけて人生を決定的に捻じ曲げられてしまったように思え、つまり高橋洋がいくつもの脚本・監督作品で描いてきた決定的に不可逆的な体験、触れてはならないものに触れてしまう恐怖、狂気への一本道へ陥っている。またおそらく、呪いの家を中心とした恐怖の合間に現実で起こった事件・事故が語られているのも、やはりそれらの出来事が社会にとって不可逆な衝撃をもたらしたからではないか。カーステレオやテレビといったメディアを通じて語られるのがマブゼでいかにも高橋洋らしく、単に時代の記号である以上に、たがが外れたような空気の蔓延を演出しているようだ。もちろん実際の出来事と呪いの家の間には何の関係もない。しかしこの作品内ではまるでそれらが反響しているかのように、不可逆な世界観が創出されている。

 

 

だから本作には、『呪怨』を象徴する伽耶子や俊雄は登場しないのであろう。彼らは直接人間に襲い掛かるが、今回の幽霊は人を襲わない代わりに長きにわたる呪いを授ける。その呪いを実体化させたものの一つが赤子なのだけれど、これはおそらく、難産により亡くなった女性の怨念から生まれる、ウブメという怪異が原型となっている。『山の人生』によると、ウブメは畔に出現し赤子を抱いてくれと呼び止める怪異で、その結果は言い伝えによりさまざまであるようだが、『今昔物語』の昔から語られていたようだ。また中国の『夷堅志』という志怪小説には「餅を買う女」という、死後出産した女の霊にまつわる話があり、それが日本では「飴買い幽霊/子育て幽霊」として翻訳されたという。さて、本作において幽霊から赤子を受け取ったと思われるのは小田島と聖美である。そして妊婦と胎児の死という点ではやはり千枝(久保陽香)の存在が大きい。彼女の結末は現実に起こった2つの事件を組み合わせているから古典的物語と安易に結びつけるのは気が引けるけれど、とはいえ本作は実録犯罪と呼応しつつ、かつ伝統的な怪談と結びつき、一度生まれた呪いは埋葬や供養などで消えはしないという視点において『リング』と同様のJホラー文脈にも則っており、総合して新しい翻訳がなされているといえよう。ちなみに『リング』との相似でいうと電話も外せず、都合を無視し一方的にかかってくる電話の暴力性が、今回まさに暴力として表現されていることについては大変感動した。

もう一つ伝統的だと思える表現があって、それは照明だ。先に述べた第1話の、哲也が自宅で幽霊を目撃するシーンでその出会いはまず開いているはずのない扉によって予感され、次に、誰もいるはずのないその扉の先にあるオレンジのライトが灯ることで、尋常ではない事態だと明らかになる。諏訪春雄によると、幽霊は灯火を頼りに他界から出現し、またその明るさに導かれて他界へ戻るという。迎え火や送り火、灯篭などがなじみ深いものであろう。本作においては暖色のライト・照明がその役割を果たしていて、全話数にわたり印象的な色を残している。例えば第1話の最後、聖美が暴行されるシーンでは、彼女の周囲が急にオレンジ色に包まれる。どうやら窓から差し込む夕日の明かりらしいけれど、それまでの薄暗い雰囲気からは唐突な変わりようであるため驚かされる。次に第2話。ここで最もオレンジが印象的なのは聖美の母を殺すシーンだけれども、他にも哲也の死を電話で聞かされるシーンや、彼の葬式、そして聖美への暴行を手伝った少女たちの顛末など数多く確認できる。第3話は勿論、『インシディアス』のオマージュも見られる降霊術においてで、これは最終話でも繰り返される。最も目を覆いたくなる展開が待ち受ける第4話では、まさにその目を覆う殺人が行われるとき、画面はオレンジに染まっている。第5話の雄大が風呂場で殺されるシーンもまた不思議で、薄暗く青い照明が支配する室内とは全く別に、浴室の窓からは暖かい光が点滅するように差し込んでいる。それぞれ、幽霊を登場させるものからその予感や余波を感じさせるものまで幅広いけれども、いずれにせよ本作においてオレンジの照明は、決して温かみを感じさせるものではないということがわかる。

 

 

さて、ここまで長々と書いてきたけれども実際のところ僕は『呪怨 呪いの家』に対し、面白いけれども若干期待外れであったと感じている。というか、単純にあまり怖くない。おそらく、つながり過ぎているから怖いと思わなかったのだろう。つまり、本作で人が人を殺すときその背後に呪いの影響はあるものの、彼らなりの理由もまた存在している。例えば千枝とその子の死はショッキングに思えるが、憎しみを買う平凡な心理的理由が付与されていることで呪いの強度は目減りする。もちろん聖美の母や雄大もそうだ。聖美がすべての始まりの部屋で写真を並べながらさめざめと涙をながすシーンなど、その理由がとてもよくわかるがゆえ、悲劇ではあっても怖さは感じない。小田島が生かされている理由もわかりかける。つまり本作においては呪いに意味や心理が加えられていくようで、そうなると個人的にはあまり怖さを感じない。これが例えば近年最高のホラー『ジェーン・ドウの解剖』ならば、呪いの根源はわかるけれども、それが降りかかる人間には何の意味も理由も付与されない。だから怖い。

家は怖い。特に最終話、素晴らしい編集によって過去・現在・未来が入り交じり突如人間が蒸発するこの時間の消えた空間は全く理解不能だが、故に明らかに異界であり忌まわしいために怖い。もちろん腹から出てくる電話もそうだ。これについては後になぜそうなったのか理由めいたものは語られるけれども、その理由もまた常軌を逸しているのが素晴らしい。第2話で公園の奥に見えてはいけないものが見えるシーンも素晴らしい。ここはまず画面内に2本のポールが立っているという垂直方向の配置も素晴らしいが、なにより、なぜそこに立っているかについては何の説明もなく、ただ居てはいけないものが居るから怖いのだ。そういうものを僕は好む。

余談だが、母を殺した後に聖美と雄大が夜の道を歩いていくシーンや千枝を殺し子を埋めた後血だらけの姿で早朝の街中を徘徊する圭一(松嶋亮太)の姿は良かった。この辺は三宅唱監督の感覚だと思う。