リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

青森旅行記②

6月30日(日)・・・②

財布の一件も落ち着き、青森駅へと移動して友人と合流。二人とも昼食をとっていなかったので、偶然駅近くでやっていた肉フェス会場へと行くとこじんまりとした敷地にとんでもない人だかり。人を避ける人生を送ってきた二人は肉の匂い漂う会場を躊躇なく素通りし、ライブ会場である青森クォーターの下見。といってもまだ物販を開始しているわけでもなかったため、ただ場所を確認しただけでやはりここも素通りし、結局駅前にある食事処おさないへ。ホタテ料理の有名な店で、昼食時間ということもあってやはり多少混雑していたが、わりとすぐ席に着くことができた。懐かしの店でホタテの刺身定食とヒラメの刺身を平らげ、続いて友人からの提案で喫茶クレオパトラへと移動。ジャコウ猫の糞からとれる豆を利用しているというコピ・ルアクをいただく。しかしそれよりも椅子やカップなど内装の豪華さに驚かされる味の違いの判らぬ大人ことわたくし。ところでお気づきであろうが、財布を無くして金を借りている割には金遣いが荒い。こういうところにこそ人間の変えられぬ性は現れるものであって、元々、ゆこう、となれば考えは改めない質なので、今回もそういうことになった。

腹も満たされ、休みであろうと関係なく鳴り響く仕事の連絡も終えたところでライブの準備、つまりお着替えのため一旦ホテルへとチェックインし、シャワーを浴びツアーグッズではなく『デス・プルーフ』Tシャツで気合を入れる。ところであえて今まで書きはしなかったが、今回はRHYMESTER結成30周年ツアー『KING OF STAGE VOL.14 47都道府県TOUR2019』へ参加するための遠征であった。RHYMESTERは大学1年生のとき、つまりもう10年も前にラジオがきっかけで好きになったのだが、今回初めてのライブ参加。ヒップホップのライブもライブハウスも初めてだからノリに多少不安はあるものの、ほとんどの曲を諳んじることができるくらいにはなっているんだから大丈夫であろうと意気込む。ちなみにここで弘前のホテルに髭剃りや洗顔料等を忘れていたことに気付いたが時すでに遅し。

友人と再度合流しいざ会場へ行くと早すぎたのか集まりはまばらで、すんなりと物販にてロングTシャツを購入。すぐに金を引き出せる状況であればもう少し何か買っていたろうが、残念ながら今財布は東京駅から自宅へと発送されることを待ち望んでいる状態なので断念。こんなところで何故だか妙に慎重な金遣いとなる。そうこうしているうちに番号順に並んでくださいとの指示。整理番号はAの50番台で、実際会場に入ってみるとかなり前のほう、というか前から3列目の超至近距離ではないか。

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唐突に写真。しかしご覧いただきたい、この距離である。こんな目の前に現れるのかと思うとすでにかなりの興奮で気分も高まっていたのだが、その時に向け静かに抑えていると暗転。キング・オブ・ステージの開幕。

実際に曲が始まれば開始前の不安など一瞬で吹き飛ばすステージ。宇多丸Mummy-DDJ JIN  の聖なる三角形。実物の魅力は半端ない。キングオブステージは伊達じゃない。今ここでライブに参加しているということ以外すべて頭から消え去る圧倒的パフォーマンスで、緩急はあっても常に夢中でいられる幸福な時間であった。それこそ、あまりにも楽しいがゆえに涙を流してしまうほどである。

しかしこの異常な楽しさはいったい何なのであろう。もちろん、リズムに乗って体を動かし、煽りにしたがって声を出し、歌詞の力強さに心を震わせ、そして御三方のあまりのカッコよさにエキサイティングするというのはある。だがどうもそれだけではない。それらが合わることによって、まるで今自分がこの場にいることまでも肯定されているように感じたのだ。今この瞬間、心の底から楽しいと思える場所にいられて、自分が楽しいと思えるやり方で楽しめて、しかもそれが受け入れられている。場違いじゃない。間違ってない。そう思えたからこそ、涙を流すほどに楽しくて、嬉しかったのではないかと思うのである。実際普段の生活では、近くに友人は一人もいないし、恋人などはもちろん、さらに職場へ行けばやや苦手なノリこそ正義であって、誰と心を通わすわけでもなく一人家に帰り映画を見て寝て起きはまた仕事へという日々を過ごており、自分が今この場に存在していることを肯定的に捉えるなんて到底不可能な毎日だ。だがここは、今この場は自分が存在していることを肯定できる。自分はゴリゴリのヒップホップ好き、B-BOYではないけれど、間違いなくそうであったRHYMESTERの三人がそのスタイルを貫いたままこの場に立っているということに対する全身全霊でのリスペクトが、そのまま自分にもお返しされているかのような錯覚、いや錯覚じゃない、あの場で感じた、自分が自分であることを誇るという感覚は本物だ。RHYMESTERがそうさせてくれる。会場の人たちがそうさせてくれる。そうやって今を肯定できる。そんな三角形を感じられた。だから泣くのだ。それが幸せだから泣いたのだ。そんな幸福に包まれたまま終始最高潮のライブ終了。今宵個人史に輝く金字塔。そして宇多丸さんとだけ軽くハイタッチできた。フゥー!

さて自分らしくあれるというのは一緒に行った友人との会話でもそうであって、話していて苦になることなどあるはずもない。というわけで終演後は津軽じょっぱり漁屋酒場で久々の楽しいだけの飲み会開始。コの字型になったカウンター式の座席のみという珍しいスタイルの店だが、ここで青森の幸をいただく。美味い。

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この本まぐろ、これだけで2,000円以上するわけだが、食べた瞬間美味しいと口に出すよりもまずあまりのことに驚いてしまう。そして驚いた後さらに笑ってしまってから、ようやく美味すぎるという言葉が出てくる。それくらい衝撃の美味さ。ほとんどカルチャーショック。豪勢な食事と酒と会話を楽しんだ後、財布のない今、お会計は無理だと悟り友人にまたお借りしてシメのラーメンへ。こっちはきちんと自分でお支払い。ホテルに帰り楽しさを反芻しながら寝る。

 

 

7月1日(月)

起床。腰が痛いが、思ったよりダメージは少なくて助かる。シャワーしてチェックアウト。友人と再合流し、朝飯とも昼飯ともいえない時間にまるかいラーメンであっさりした煮干しラーメンをいただく。あっさりでよかった。美味い。

その後青森駅へ向かい歩き出すと後ろからいざこざの雰囲気。ちらちらと気にしつつ、全身真っ黒い服に身を包んだ二人はまず一度コーヒーを飲んでから青森コロナシネマワールドへ向かう。こちらの要望で、山戸結希 監督最新作『ホットギミック ガールミーツボーイ』を見ることになったためである。男二人で見るような題材ではない。さらに劇場内へ入るともう一名男性が。男性3人しかいない空間で少女漫画原作映画を見るという特異体験。

本編の感想についてはいずれブログでと思っているため詳しくは書かないが、異常なカット数の中動線と音楽とセリフが混じり合い、山戸結希的映画世界としかいいようのない快感を生み出すときの弾け具合が特に素晴らしい。確かに一つ前の長編『溺れるナイフ』と比べると失敗している部分もあるように思うものの、それでも豪速球で失敗しているんだから問題ない。残念ながら友人はそう思えない部分が大半だったようだが、とはいえ一緒に『劇場霊』を見た時よりは建設的な体験になったみたいなのでオッケー。そんなこんな、映画やらについてまたコーヒーとケーキを楽しみつつ語っていると帰りの時間に。日常へ戻らなければならないという現実からなるべく目をそらし、またまたコーヒーを飲んでいたりもしたのだがついにタイムアップ。駅で別れ、新幹線で北海道へ。また何の面白みもない日々の中へ埋もれていくが、埋もれやしないいいくつもの思い出もできた旅行であった。

 

予定は未定で。

予定は未定で。

 

 

青森旅行記①

6月29日(土)

田舎道にポツンと聳えるまことに不便な新函館北斗駅から、建設当初に比べると幾分マシになった気もする新青森駅へ向かうため新幹線に乗り込むととたんに眠気に襲われるが、どうせほとんど青函トンネルだから見る景色もないし、そもそも何度も見た風景だからと言って即眠りにつく。1時間弱眠ったところでもうすぐに到着。携帯のカバーに挟んだ切符を確認し、ついでに翌30日に参加するライブのチケットも確認してうっすら笑みを浮かべたのち、さぁいざと本州最北端の地へ降り立ったわたくし。旅行初日は大学時代の故郷である弘前へ行く予定を立てていたため、乗り換えの切符を購入をしようとしたその時、あることに気付いたのである。

「財布がない・・・」

ない。いくら探してもない。どこで落としたのか覚えてない。何も覚えてない、覚えてないもんは覚えてない、覚えてないからにはとにかく覚えてない、状態である。財布の中には現金のほかキャッシュカードにクレジットカード、身分証明書と帰りの切符、さらにはPerfumeのファンクラブ会員証まで入っていたもんだから一大事。つまり、頭を抱えて立ち往生するほか手立てがなくなったのである。まずは駅員へ状況を説明するも現状落とし物として届けられてはおらず、東京駅に到着し清掃が入ったら見つかるかもという返答。その連絡に希望を託しつつ、次は交番へ行って届け出をしなければならないという。あぁしかし何ということでしょう。新青森駅から一番近い交番まで行く方法がないじゃあないか。なぜなら一銭も持っていないのですこの男は。

しかしここで妙案思いついた。そうだ、金を借りよう。知り合いに。というわけで、連絡こそ絶やさなかったものの6~7年ほど会っていなかった知人に連絡。久々の再開が金の無心という人としての低みを存分に見せつけ、死ね、バカ、ふざんけんな、なんなのという当然のお言葉を頂戴しつつ交番まで送ってもらい、何とか救われる。紛失物の届け出をして、もうこれ以上打つ手はないというところで予定より3時間以上遅れて弘前に到着。宿泊先でようやく一休み。借りられたのが期待以上の額だったとはいえ、あまり金は使えないのでその日予定していた飲み会はキャンセル。しかしそうなると夜が暇すぎるので、レイトショーで『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』を見ることに。こちらは、冒頭の校内放送から見ること、信じること、嘘といったモチーフが青春恋愛映画要素とも絡まりつつ(例えば機内で一緒に映画を見たいと願う等)、細かいセリフやシチュエーションからも一貫して繰り返されており、それがアイアンマンへの憧憬や、果ては「ないものをあるように見せる」もしくは「あるものをないように見せる」映画づくりそのものにまで踏み込んでいくことに面白さを感じた。

さて映画が終わって懐かしい道のりを歩いていると、ツイッターにDMが。なんと財布を落としたという呟きを見て、大学時代にお世話になった方が連絡をくれたのである。ここぞとばかりに甘える決意をしたところ、飲みにつれて行ってもらったうえひたすら趣味の話で盛り上がり、しかもお心遣いまでいただくという何ともありがたく楽しい時間を過ごさせていただいた。そんなこんなで帰宅すると深夜3時。結局JRから連絡は来ず、不安と落胆の中で眠りにつく。

 

 

6月30日(日)・・・①

財布を無くして一日。そんな状況で起きてまず何をしたかというと、最後の希望を託し自分からJR東日本に問い合わせてみた。すると、なんと昨日のうちに財布が見つかっていたというではないか。しかも本人報告済みとして処理されているとのこと。だが確かに留守電も着信もない。昨日一日不安な中で過ごしていたというのにどういうこっちゃと若干不機嫌になるが、まぁ見つかったのなら万歳だし、しかも中身はすべて無事だというじゃないか。何たる幸運。となると次はどうやって受け取ったらいいのかということであって、確認すると、方法は二つだという。①東京駅まで取りに行く。②自宅に郵送。いやいや新幹線は走ってるんだからそれで運べばいいじゃんとも思うのだが、出来ないというのだから仕方がない。しかもどちらの方法にせよ本人確認が必要らしい。つまり①なら免許証と本人の顔が一致すればよし。②なら確認できる書面等を持って来いというのだ。いやだから、本人確認できるものはすべて財布の中なんだってと言っても聞く耳持たれず、そういうことだからと返答されるのみである。というか、免許証と顔が一致すればいいならその場で写真を撮って免許証と照合すればいいんじゃないのか。そんな疑問を抱きつつ、とにかく東京駅まで往復するほどの時間も予算もないのだから、連絡事務ミスの部分でゴネて何とか郵送できるようにしてもらおうと画策し、弘前から新青森駅へ。

新青森駅へつき、早速昨日と同じ窓口で経緯を説明。人として情けないやり方だが、不機嫌を押し出し郵送できないもんかねと尋ねたところ、スマホの設定画面にある名前と、届けられている財布の中にある証明証の名前が一致すればいいとの返答が。いやそんな簡単でいいなら最初から言えよJR東日本。そんなわけであっさりと郵送の手続きも終わり、ほっと一息つくためリンゴジュースを飲みほして(駅構内にはリンゴジュースしか選択肢のない自動販売機がある)、財布の一件はほぼ終了した。

財布を落として思わされたのは金の大切さよりむしろ、免許証保険証がなくなるともはや自分の存在すら認めてもらえなくなるのかということであった。というのも、これらを無くした場合取り戻すにはやはり本人確認が必要なのであって、じゃあその確認書類がないとすると、そのとき自分は何者としても扱われないのである。まるでディックか安部公房のような気分でもあったが、しかしそんなときでも助けになるのは友人・知人であるというところに、らしくもない感情を抱いたのである。ところでこの男、こんなことがあった翌日だというのに、ホテルに髭剃りや洗顔料等々を忘れているということには、この時はまだ気づいていなかったのである。

 

 

 

長くなったので旅行記②へ続く。

『さよならくちびる』を見た

僕はこんな歌で あんな歌で

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『害虫』『カナリア』などで知られる塩田明彦監督最新作。主演は門脇麦小松菜奈成田凌。タイトルにもなっている主題歌を秦基博、挿入歌をあいみょんが手掛けたことも話題になっている。
 
 
全国7都市を回るツアーに出発するため、車に乗り込んだハル(門脇麦)とレオ(小松菜奈)の二人による音楽デュオ・ハルレオ。しかし二人の仲はお互い口を利かないほど険悪であり、このツアーを最後に解散する予定となっていた。ローディー兼マネージャーのシマ(成田凌)もそのことを再度確認し、最後のライブまではハルレオとしてちゃんと演奏するよう念押しする。しかし、最初の会場から別行動をとっていたレオがライブに遅刻するなど波乱続きのツアーとなり・・・

 

 

塩田明彦監督作品において道が常に印象的であるのは、そこがアクションの現場となるからである。例えばただ歩くということや走るということによって映画的活気を生み出すこともあれば、並んで歩いたり立ち止まったり、もしくは視線の位置や体勢によって人物たちの関係性を変化させることもあれば、時に唐突な出会いをももたらす。塩田明彦作品の人物たちは道を歩き、あるいは走り、そして時に唐突なアクションを起こすことによって、言葉以上の語りを得ている。だからやはり『さよならくちびる』においても、音楽デュオ解散に向け静岡から函館まで移動する車の風景、ロードムービー的な風景よりもむしろ、車を止めて歩き出す姿か、もしくは発進するため乗り込む姿にこそドラマがある。険悪な雰囲気のハル(門脇麦)とレオ(小松菜奈)の二人は決して車を降りても同じ速度で歩きはしないし、目的がなければ同じ方向に歩くこともない。二人一緒に車に乗るということもあり得ないだろう。

 

 

ただし、ハルレオの間にシマ(成田凌)という男がいることによってその険悪な道はただ二股に分かれているだけはなくなっており、彼ら3人の関係性は、異なる組み合わせで、それぞれ異なるシチュエーションにおいて、似た動作を幾度も繰り返すことによって浮かび上がらされている。例えば冒頭、ハルが画面外からドアの外へと荷物を放り投げシマへと渡す姿は、シマが画面外からハルへライターの火を差し出す動きとして変奏されている。同じようにレオへと火を差し出すシマの行為は退けられるものの、それはレオからのキスの拒絶へ導かれており、そしてキスの拒絶は彼らすべての関係性の中で再演されるだろう。関連して、ハルは2度不意に近づいてきた相手の体を避けるために体を翻している。また、喧嘩の果てに窓ガラスが割れたその直後に今度はドアが蹴破られるし、コップの水をかければやはりかけ返される。そしてもちろん、道を歩くという姿も同じように1対1、2対1という構図で繰り返されており、これら画面への出入りが激しいいくつもの不意な行動は、俳優たちの素振りと編集の見事さよってまず画面を見るということに対し心地よい驚きを与えてくれるのだが、その驚きは繰り返されることによって次第に3人の関係性とその変化へ踏み込んでいく。

 

 

おそらく、そのことが如実に現れているのがカレーを食べるという行為であろう。ハルとレオが出合い、ギターを教え、そして並んで食べた手作りのカレーは終盤レストランで繰り返されており、そこではシマを加えた3人となっているし並んで食べはしないものの、カレーを食べているのはハルとレオの2人であるうえに、涙を流すという行為まで反復されている。ここでは、彼女らの間でいつの間にか庇護者としての役割が逆転していたことが泣くという行動によって表されており、かつてレオを保護する存在だったハルはレオから多くを受け取っていることに気付いているわけだし、レオはホームレスと水商売の女のエピソードからわかるようにどこへでも行ける存在だが、ハルは特定の場所にしかいられないのだということに自分で気づいているから、ハルレオの解散後を問われ不意に涙を流したのであろう。ハルを除いた二人が(他人のとの関係性によって)ライブハウスに遅刻してくるという繰り返しも、ハルに音楽しか居場所がないということの表れといえるかもしれない。もちろん、それがレオにとっての、またはシマにとってのあこがれでもある。

 

 

さて、そうして迎えた解散は、しかし結局バラバラの方向へ向かったはずの足取りが再度車の中へ収束するという展開によって撤回される。そうして集まった車内では、今まで一度も3人が同じ方向を向くなどありえなかったはずなのに3人とも前を向いている。これは序盤、3人がチームを組んだ際それぞれ目標を叫びながら拳をあげたことの変奏であって、3人はまた再び、同じ方向を指し示している。彼女らは仲直りしたわけでもないし、ツアーを終えて新たな目標ができたわけでもなく、おそらくこれからも道は別々だろう。だからこれがハッピーエンドなのかは知る由もないけれど、しかしそれでも、1、1対1、1対2の関係性を経て再び3人でいることを選択し戻ってきた。そして彼女らはまた歌うだろう。なぜなら3人の視線が同じ方向を向くことが反復されるとしたら、それはステージ上に違いないのだから。

さよならくちびる

さよならくちびる

 

『ヘレディタリー 継承』をワーストに選んだ理由について

去る12月、例年通り新作映画ベストテンについて更新したのだが

今年の映画、今年のうちに。2018年新作映画ランキング - リンゴ爆弾でさようなら)、そこでワースト5位に『ヘレディタリー 継承』を選んだところ、ワーストに選んだ理由を聞かせてほしいとのコメントをいただいた。このブログにコメントが付くことは珍しく、せっかくのリクエストならば応えようと思ったのだけれど、鑑賞から時間もたっていたためずるずると引き延ばしてしまっていた。しかしついにレンタルおよび配信開始となったため、とりあえず再見して、ようやく感想を書くことができた。

 

 

さてはじめに断っておくと、確かに『ヘレディタリー 継承』をワースト5に選びはしたものの、だからといって駄作だと吐き捨てているのではなく、むしろ精巧に作られた作品だと思っている。例えば、冒頭ドールハウスの内面にカメラが寄っていくと、そのまま現実の人間たちのドラマがその内部で始まるという入れ子的構造には異様な空気が漂っているし、セットによる邸宅の撮影は美術面だけでなく、極端に引いたり上に位置するカメラや壁を無視した横移動といった、通常では考えられない画面づくりという点でも一役買っているし、円や三角を取り入れた造形に加え、四角形を画面に定着させることでまるでドールハウスの断面から中を覗いているような錯覚をも感じさせてくれる。また、幾度か登場する全景のショットのうち、特に序盤のいくつかはレンズの選択であろうか、まるでミニチュアを見ているような違和感を覚えるのだけれど、終盤悪夢的展開が強まるとむしろ家は実在の重みをもって映し出されるという倒錯具合も面白い。その悪夢的終盤に至る用意も周到だ。ちなみに今回見返してみて気づいたのだが、ピーターらが参加するパーティー会場にて、数人がパソコンで何かをみているのだけれど、それはフェルディナン・ゼッカ監督『ある犯罪の物語』(1901)の最後、犯罪者がギロチン刑に処されるというシーンで、いくつかある暗示のうちの一つである(ちなみに『ある犯罪の物語』は現在とまるで表現方法が異なる回想や、唐突に画面が反転したりと相当困惑させられる面白い作品だ)。音の表現については喉を鳴らす音よりもむしろ画面外から聞こえてくる音、中でも時計の音は頻繁に聞こえているにも関わらず時計自体は映らないのであって、つまりこれは彼ら家族にとっての音ではないのではないか、と思わせるところが面白い。

 

 

これら諸々の要素が、精巧に組み立てられることによって成立している作品であるということについて異論はない。ではなぜワーストに選んだのかという理由だが、むしろだからこそ、ワーストに選んだのだ。つまり、精巧に組み立てられた世界の中、掌の上で踊らされるようにしてあらかじめ仕組まれていた結末へ向かっていくという巧みな計算術は確かに手つきとして素晴らしいのかもしれないけれど、しかしむしろすべてが駒のように見えててしまって、ドールハウス的構造が洗練されていればいるほど、要素同士の繋がりにより真相が明らかになればなるほど作為がはっきりとし、秩序だった物語が浮かび上がってくる。

もちろんすべての作品は作為の上に成り立っているのだが、本作が殊更そう感じさせるの理由には閉じた世界であるということがあげられる。これは物語の構造上仕方のないことだが、ある特定の家族の話で、しかも舞台がほとんど家の中に限定されているとなれば、外の世界、つまり観客たる我々の世界とは遠い話でしかなく、しかもどんどんトラウマ的に内側へこもってしまう。個人的に恐怖とは外側への意識に依るものであって、例えば金字塔『悪魔のいけにえ』でも、近年の傑作『ジェーン・ドウの解剖』でも、個人的に最も恐ろしい『CURE』でも、すべて外側=世界へと恐怖がはみ出してきているから怖いと思うのである。だが本作はあくまで巧みに内側へと収束させていく話であり、秩序だっていればいるほど外側へ波及していくことがないとわかり、自分とは切り離された物語として鑑賞者的態度を崩すさず安心して見終えることができるため、結果怖さという点で期待値からは相当落ちてしまったのである。

 

 

もちろん、そういった類のホラーは駄目だというのではない。トラウマ的に精神を蝕んでいく作品であろうと傑作はあるわけだし、そもそも本作についても、期待とは違うというだけでそれを抜きにして見たとすれば、何度も述べているようにそつがなくよくできている面が多い。それに駒でしかないというのは本編序盤、ギリシア悲劇についての授業でも似たようなことが述べられていたりするので意図的な作劇なのだから、これはもう、趣味が違ったとしか言いようがないことなのだ。ただもう一点、あまり好みではない部分があって、それは本作が、アクションではなくリアクションの映画だということである。リアクションとはつまり恐怖に面した人間のリアクションなのだけれど、本作の画面は人物の顔面の占有率が高く、恐ろしい出来事に面したとき、アクションよりもリアクションのほうに時間をとっているのだ。しかしリアクションとは納得であったり説明という効果を果たすように思え、観客を誘導するには有効な手なのかもしれないが、本作の場合その比率が大きすぎるため、恐怖の増幅というよりは顔面のくどさのほうが印象に残ってしまった。これは、何か禍々しいものを見てしまった、という恐怖をも打ち消しているように思う。アレックス・ウルフはまだ作品にあった顔つきを見せているけれども、トニ・コレットはリアクションの熱量が高すぎる。そんなリアクションが何かあるたびにきちんと挟まれることによって感情を整理する隙が生まれているし、何より鬱陶しい。ただし終盤ピーターの周囲で狂気が爆発するシークエンスはほとんどリアクションを取る間もなくガラス窓をぶち破るというアクションがきちんと撮られており好ましい展開だった。

 

 

以上が僕の本作に対する感想であり、ワーストとしたのは前評判の高さや宣伝などからさぞかし怖いものを見れるに違いないと期待していた落差によるものであるが、それを差し引いてもそんなに面白いとは思えなかった、というのが正直な気持ちである。

最後にこの作品で僕が最も評価している点について述べたいのだけれど、それは死体のデザインである。死体が写される映画は数多くあれど、死体をインテリア的にデザインするというのはそれほど多いわけではないように思うし、そのデザインにも美意識というよりは悪意がある。チャーリー首から下なんか若干チープなところも含めて最高じゃないか。この容赦のなさは登場人物を駒的に扱うからこそともいえるかもしれないが、祝祭ムードが漂っているなかで見せられるとあまりにもひどい姿であっても不思議な感動があり、ここがあるおかげで僕としては家族にまつわる厭な映画という感想も持たなかったのである。というわけで今回はアリ・アスター監督の意図に乗れない部分もあったけれど、次回作を期待させるには十分な作品ではあったから、いつか地獄の底に叩き落としてくれるような映画を見せてくれると信じて待っていようと思う。

 

 

『グリーンブック』を見た。

すてきなホリデイf:id:hige33:20190331004139j:plain

ジム・キャリーはMr.ダマー』『メリーに首ったけ』などで知られるファレリー兄弟の兄・ピーターが監督・制作・共同脚本を務めた作品。主演はヴィゴ・モーテンセンマハーシャラ・アリ。第91回アカデミー賞において作品賞、助演男優賞脚本賞を受賞した。

 

 

1962年。ニューヨークのナイトクラブで用心棒をしているトニー・リップ(ヴィゴ・モーテンセン)は店舗改装のため一時閉店となることから、新たな職を探していた。そんな折、運転手の仕事を勧められ面接へと向かうと、彼を待っていたのは黒人ピアニストのドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)であった。ドンは2か月後のクリスマスまでに各地でコンサート開催する予定となっており、その運転手と身の回りの世話係を探していたのだ。トニーは身の回りの世話までしなければならないという条件に反発し交渉は決裂する。しかし、ドンとしては差別意識の強く残る南部でもコンサートを開催することから腕っぷしが強く口がうまいトニーをどうしても連れていく必要があるため、条件を変更。かくして二人は旅に出ることとなるのだが・・・

 

 

このグリーンのキャデラックが運ぶ心地よさを否定してはならない。確かにこの車には重い荷物が乗っている。けれども、そのことについて殊更強調したりはせず、立派なお題目を脇目に軽やかな走りを見せているからこそ、この作品は素晴らしいのである。この軽やかさは反復と差異を細やかかつ流暢に処理していることによって生み出されているのだが、その演出上の巧さを、生身によって画面に定着させたヴィゴ・モーテンセンマハーシャラ・アリという二人の俳優抜きにして語ることはできない。『グリーンブック』はまぎれもなく彼ら二人の振る舞いによって語られている作品なのだ。

 

 

例えばヴィゴ・モーテンセン演じるイタリア系の用心棒、トニー・リップは図体のでかさにもまして、冒頭から手を汚すこと、隠すことが強調されている。彼は用心棒として殴ることもいとわないし、有力者の信頼のためならば帽子を隠し平然と嘘をつく。消火栓を隠し、黒人が使ったコップを隠す。対してマハーシャラ・アリ演じる黒人のピアニスト、ドン・シャーリーは毅然とした態度を崩さない。他人に対し下手には出ず、自らの手はピアノのためにこそあるというかのごとき態度を保つ。旅に出てからも、トニーはまずサンドイッチを手づかみで貪り、妻がドンのために用意した分も食べてしまう。立ち寄ったスタンドで翡翠の石を盗む。しきりにタバコを吸う。警官を殴りつける。ドンはそれらの行動を咎め、正すが、自らの手を汚す羽目になることは嫌っている。

彼らの性質によって繰り返されるこれらの振る舞いは、しかし変化もしていくこととなる。例えばフライドチキンについて、はじめドンは「手が汚れるから」と嫌がっていたのにトニーに押し切られ、手づかみで食べて窓から骨を捨てまでする。ちなみにここではお互いに水平の動きで骨を捨てるも、紙コップまで捨てたトニーの行動を正すときには車をバックさせ縦の動きに変えており、他にもいくつかのシーンで縦は主従関係として活用されている。またトニーが妻に手紙を書くシーンでは、彼が背中を丸めることでその大きな体がますます強調されていて面白いのだけど、ドンはその時手をこそ使わないものの、言葉遣いを指示することでどこか共同作業のようになっていくのである。またアラバマ州での最後のコンサートにおいて、あれだけ冒頭から食べることにこだわってきたトニーは、食べることをやめて会場を後にする。そして小さなジャズバーへ移動し、こだわりのピアノ以外でドンは演奏をする。その後強盗目的で車の陰に隠れていた男をトニーは隠し持っていた銃で追い払う。長時間の運転で疲れたトニーに変わり、ドンが自ら運転をし、売り場に戻していたと思っていた翡翠の石を見つける。トニーの書いた手紙について彼の妻がドンに感謝をする。こういった手を汚すこと、隠すことに関するもろもろの変化はやや作為的すぎるきらいもあるが、二人の手の先から身体つきに、歩き方まで含めた振る舞いの見事さによってこともなげに要素を拾ってまとめ上げる上品さをこそ、僕は評価したいのである。

 

 

さてしかし、このような変化を通して友情が成立し、さぁ良かったね、という話では終わらない。というのも、このキャデラックが運んでいる荷物の重さには、人種問題と絡み合う形で、孤独な魂という視点も含まれているからだ。そのことはまず、エンジンの故障により立ち止まった場所で、農作業をする黒人たちを見つめるドンの視線に現れている。ここでも手を汚す黒人たちと運転をさせているドンという対比が生まれているわけだけれども、これは彼が黒人社会とも白人社会とも相容れぬ存在であるということであるのだ。またバーでの暴行やシャワー室の真相、雨の中の告白などはドンの隠し事として語られており、彼は差別的なことについては意見を述べるものの、自らの帰属意識についてはあまり語らず、孤独にカティサークを飲むばかりなのだ。トニーはその点、家族という根がしっかり張っている。そもそもトニーにとってこの旅は家に帰るための旅であるのに対し、ドンにとっては立ち向かうための旅であるという点で彼らには大きな差がある。最後にジャズバーで演奏して喝采を得た後に強盗に襲われそうになるのは、銃の登場、いい話で締めないという狙いとは別に、結局彼がここには馴染めない存在なのだと、再度語っているということでもあるのだ。

 

 

その点について決定的な解決はないまま家路へ向かう彼らに雪が降り注ぎ、警官からの温かい言葉と家族が待ち受けているという結末は、クリスマス映画であることを意識させるに十分なプレゼント的展開ではあるが、これは甘さとして批判されるようなものではない。むしろ一度質屋の老夫婦を挟んでからドンを招き入れ手紙についてオチをつけるという軽やかに全体を包み込む上品さこそ評価すべきなのであって、この上品さは、露出狂的に意見をさらけ出し押し付けるような作品よりも遥かに巧く、そして称賛されるべきものである。アカデミー作品賞を受賞した作品の中では久々の良作。

 

Green Book (Original Motion Picture Soundtrack)

Green Book (Original Motion Picture Soundtrack)

 

 ちなみにヴィゴ・モーテンセンは小学生の頃に『ロード・オブ・ザ・リング』を見て初めて好きになった俳優で、『イースタン・プロミス』以降あまり好きな作品はなかったのだけれど、本作は久々に良くて嬉しかった。

『女王陛下のお気に入り』を見た。

宮廷肉体労働

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ヨルゴス・ランティモス監督最新作。主演はオリヴィア・コールマン。共演にレイチェル・ワイズエマ・ストーンら。 第91回アカデミー賞において10部門にノミネートされ、主演女優賞を受賞した。

 

 

18世紀初頭、フランスとの戦争下にあるイギリスを統治するアン女王(オリヴィア・コールマン)は身心共に不安定な状態にあり、身の回りの世話だけでなく政治のほとんどを幼馴染で女官長のサラ(レイチェル・ワイズ)に委ねていた。ある日、サラの従姉妹で上流階級から没落したアビゲイルエマ・ストーン)が宮廷を訪ね、召使いとして雇われることとなる。アビゲイルは薬草の知識から痛風に苦しむ女王の足の痛みを和らげ、その功績から侍女に格上げとなるのだが・・・

 

 

ヨルゴス・ランティモスは登場人物が特異な状況下に押し込められる不条理劇を撮り続けており、それは普遍的な価値観、家庭や恋愛や、アリストテレスギリシア悲劇を持ち出して語られる正義といった事柄の中に潜むいびつさを浮き彫りにさせるがための手法なのだろうけれども、しかしそういった設定やテーマより注目すべきなのは、すべての作品に共通している肉体的な要素、それも不格好なダンスや抑圧された性行為、そして肉体の変容に代表される、ぎこちなさやままならなさ、もどかしさとでもいうべき要素なのではないか。

 

 

というのもランティモス作品において、画面上もっとも目立つのは肉体によって生み出される奇妙な光景だからである。ダンスであろうと性行為であろうと、そこに開放感や官能はなく困惑や気まずさがその場には漂っており、例えば『籠の中の乙女』のぎこちないダンスと抑圧された性行為、『ロブスター』の身体的特徴の一致者探しと事務的性処理に謎のダンス、『聖なる鹿殺し』の不自由な脚と抱くのではなく見る夫婦の性、そして回転銃殺などがそれにあたり、これらは特異な状況下にあっても、さらに異質なものとして画面に登場している。つまりランティモス作品において肉体ははっきり異物として扱われているわけだけれども、しかし独立した器官として突き放しているわけではなく精神の現れという面もある上に、不格好さを罰したり恥じたりする様子も薄いから嫌悪感とは違っているように思う。肉体は、ひたすら扱いにスマートさが欠けてしまうことへのもどかしさ・ままならなさから、異物として画面に登場しているのだ。必ず登場する目隠しは、これらについて最もわかりやすい例といえるだろう。

 

 

さて、『女王陛下のお気に入り』では杖を使った不自由なダンス、感情を欠いた性、痛風による足と顔面の崩壊、そして顔面への傷といった肉体的要素があり、アン女王はいかにもランティモス的人物として肉体の扱いに苦慮しているわけだけれども、対してサラとアビゲイルは自らの肉体をそれなりに武器としているし、優雅なダンスまで踊ってみせる。彼女らは肉体を自らの意思によって権力闘争の武器として利用しているのだけれども、それはつまり物語の中に収まりよく組み込まれてしまっているということでもあって若干物足りなくも感じた。なぜなら本作は結局脚本の理屈に沿ったことしか起こらないし、露悪的に描くという意味ばかりが前景化しているのであって、それは宮廷劇というジャンルとしては悪くないのかもしれないが、やはり画面を見るというこについては美術や撮影技法ばかりが目立って、動くということ、つまり映画らしい面白さは後退してしまっているように思えたからだ。意味や理屈よりも画面/行為が前景となっている例としては、例えばアビゲイルは2回汚物まみれになるけれどもそれは着替えと立場の転換を促すためであって、(男にそれをさせられるということに意味はあるけど)後半では落ちる・着替えるがサラによって反復される。理屈や心理ではなくこのような行為によってつながっていくほうが面白いと僕は思うのである。

 

対して、意味や理屈の前景化の最たる例はウサギであろう。このウサギはいわゆるメタファーということになるのだろうけれども、単にメタファーでしかないため、心理や意味の読み取りとしての機能しかもたない。そこには画面同士を効果的につなぐということはなく、はっきり言って退屈なやり方である。『聖なる鹿殺し』もそういう面は強いけれども、肉体の機能不全っぷりが作品全体を支配していたため面白く見られたのだが、『女王陛下のお気に入り』の肉体はきちんと機能している箇所も多いため、脚本主導の映画であることが際立っていたのだと思う。

 

 

最近見た旧作の感想その37

『恐怖の報酬』(1977)

 

いかにもフリードキンらしいなと思ったのは、この作品が出口のない狂気にとらわれた者たちの映画だったからである。『真夜中のパーティー』、『フレンチ・コネクション』、『エクソシスト』、『L.A.大捜査線/狼たちの街』『ハンテッド』、『BUG/バグ』『キラー・スナイパー』・・・といった作品はすべて、いつの間にか狂気の世界へと入り込み出口を見失って一線を越えてゆく人間が描かれており、この『恐怖の報酬』もやはりその例にもれず、一縷の希望に望みをかけた男たちが、引き返すこともできず狂気にとらわれていくのである。そして恐ろしいのは、そんな状況にあってもまだ正気を保っている気でいる人間は即刻排除されてしまうという点であって、だから「妻の時計」などという、いかにも平穏な社会に戻れそうな言葉を口にした男はその瞬間、爆死という最後を迎えるのだ。それは例えば、『ハンテッド』に出てきた女性捜査官が、結局狂人二人の戦いに何も手出しができぬまま物語を終えてしまったかのような排除ぶりと同じであって、狂気以外立ち入り禁止と書かれた看板がかかっているかのごとき世界こそ、フリードキンの世界なのである。

 

 

だからこの作品はサスペンスとして面白いということとは少しずれている。わずかな揺れで爆発してしまう薬品を運ぶという設定にしては説明が足りず描写も簡素で、物語を緊張感によって進めているにしてはやや弱いのだ。だが代わりに、密林の地獄で理不尽な暴力に巻き込まれる恐怖こそ肝としている。おそらくその恐怖が最も端的に表れているのが、凶暴なまでの雨風にさらされる中、ほとんど朽ち果てているかのような橋を渡らなければならない、というシーンであろう。ここではあまりにも大げさであるがゆえに揺れたら爆発するという仕掛けがほとんど無視され、代わりに気が狂うには十分なほどの理不尽さが強調されている。また流木が急に誘導役を襲うシーンはまるでホラーにおけるアタックであって、サスペンスの文脈とは違う、暴力の急襲となっている。

 

 

本作はそもそも暴力の匂いが立ち込めており、いつだって登場人物の周りには死があったし、写さなくてもいいようないいような死体まできちんと見せてくれる。しかもそれだけではなく、物語とは直接関係のない場面、例えば結婚式のシーンでは新婦の目の周りに大きく痣ができているなど、些細な仕掛けはむしろ暴力描写にこそ仕組まれているんどえあって、よくないことが起こるであろう予感が絶えないのである。また黒シャツに赤ネクタイをつけた男はどうだ。何をするでもなくスラリと立つその存在は特に意味はなくとも不気味に暴力的である。このように細部から暴力の雰囲気が漂っているからこそ、フリードキン版『恐怖の報酬』はサスペンスとしてではなく、暴力に流され狂気へ突入するという物語としての強度が保たれている。

 

 

その暴力と恐怖の下支えとなっているのが、風土である。心地よさなどは微塵も感じさせず、心身を摩耗させるのにうってつけの場所といった具合で映し出される密林に囲まれた南米の小国は、しかも一度入ったら出ることはほとんど不可能という緩慢な地獄であるということを、フリードキンはじっくりと描写している。だからこの作品は舞台さえ整えばあとは狂気への直進を構造を描くしかないのであるし、その途中で足止めを食らったとしてもそれはサスペンスではなく、充満する暴力と狂気が足をつかんで死まで引きずり込むための停止なのであって、それはやはり、フリードキン的世界なのだ。

 

SORCERER O/S/T

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