リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『女王陛下のお気に入り』を見た。

宮廷肉体労働

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ヨルゴス・ランティモス監督最新作。主演はオリヴィア・コールマン。共演にレイチェル・ワイズエマ・ストーンら。 第91回アカデミー賞において10部門にノミネートされ、主演女優賞を受賞した。

 

 

18世紀初頭、フランスとの戦争下にあるイギリスを統治するアン女王(オリヴィア・コールマン)は身心共に不安定な状態にあり、身の回りの世話だけでなく政治のほとんどを幼馴染で女官長のサラ(レイチェル・ワイズ)に委ねていた。ある日、サラの従姉妹で上流階級から没落したアビゲイルエマ・ストーン)が宮廷を訪ね、召使いとして雇われることとなる。アビゲイルは薬草の知識から痛風に苦しむ女王の足の痛みを和らげ、その功績から侍女に格上げとなるのだが・・・

 

 

ヨルゴス・ランティモスは登場人物が特異な状況下に押し込められる不条理劇を撮り続けており、それは普遍的な価値観、家庭や恋愛や、アリストテレスギリシア悲劇を持ち出して語られる正義といった事柄の中に潜むいびつさを浮き彫りにさせるがための手法なのだろうけれども、しかしそういった設定やテーマより注目すべきなのは、すべての作品に共通している肉体的な要素、それも不格好なダンスや抑圧された性行為、そして肉体の変容に代表される、ぎこちなさやままならなさ、もどかしさとでもいうべき要素なのではないか。

 

 

というのもランティモス作品において、画面上もっとも目立つのは肉体によって生み出される奇妙な光景だからである。ダンスであろうと性行為であろうと、そこに開放感や官能はなく困惑や気まずさがその場には漂っており、例えば『籠の中の乙女』のぎこちないダンスと抑圧された性行為、『ロブスター』の身体的特徴の一致者探しと事務的性処理に謎のダンス、『聖なる鹿殺し』の不自由な脚と抱くのではなく見る夫婦の性、そして回転銃殺などがそれにあたり、これらは特異な状況下にあっても、さらに異質なものとして画面に登場している。つまりランティモス作品において肉体ははっきり異物として扱われているわけだけれども、しかし独立した器官として突き放しているわけではなく精神の現れという面もある上に、不格好さを罰したり恥じたりする様子も薄いから嫌悪感とは違っているように思う。肉体は、ひたすら扱いにスマートさが欠けてしまうことへのもどかしさ・ままならなさから、異物として画面に登場しているのだ。必ず登場する目隠しは、これらについて最もわかりやすい例といえるだろう。

 

 

さて、『女王陛下のお気に入り』では杖を使った不自由なダンス、感情を欠いた性、痛風による足と顔面の崩壊、そして顔面への傷といった肉体的要素があり、アン女王はいかにもランティモス的人物として肉体の扱いに苦慮しているわけだけれども、対してサラとアビゲイルは自らの肉体をそれなりに武器としているし、優雅なダンスまで踊ってみせる。彼女らは肉体を自らの意思によって権力闘争の武器として利用しているのだけれども、それはつまり物語の中に収まりよく組み込まれてしまっているということでもあって若干物足りなくも感じた。なぜなら本作は結局脚本の理屈に沿ったことしか起こらないし、露悪的に描くという意味ばかりが前景化しているのであって、それは宮廷劇というジャンルとしては悪くないのかもしれないが、やはり画面を見るというこについては美術や撮影技法ばかりが目立って、動くということ、つまり映画らしい面白さは後退してしまっているように思えたからだ。意味や理屈よりも画面/行為が前景となっている例としては、例えばアビゲイルは2回汚物まみれになるけれどもそれは着替えと立場の転換を促すためであって、(男にそれをさせられるということに意味はあるけど)後半では落ちる・着替えるがサラによって反復される。理屈や心理ではなくこのような行為によってつながっていくほうが面白いと僕は思うのである。

 

対して、意味や理屈の前景化の最たる例はウサギであろう。このウサギはいわゆるメタファーということになるのだろうけれども、単にメタファーでしかないため、心理や意味の読み取りとしての機能しかもたない。そこには画面同士を効果的につなぐということはなく、はっきり言って退屈なやり方である。『聖なる鹿殺し』もそういう面は強いけれども、肉体の機能不全っぷりが作品全体を支配していたため面白く見られたのだが、『女王陛下のお気に入り』の肉体はきちんと機能している箇所も多いため、脚本主導の映画であることが際立っていたのだと思う。