『ソーシャルネットワーク』を見たよ
「市民マーク」
「ゼロ年代アメリカ映画100」という本がある。この本は『ソーシャルネットワーク』の監督であるデヴィット・フィンチャーの『ファイト・クラブ』から始まる。この映画はゼロ年代の始まりを告げる映画となったのであった。
そしてもし10年代の研究本が出たとしたら、その始まりは『ソーシャル・ネットワーク』からであろう。それくらい時代にリンクした素晴らしい映画であった。
最初のシーン。酒を飲みながら会話しているカップルらしき2人、いや正確には会話はしていない。2人の話はまるでかみ合っていないのだ。男の方は早口でバーッと喋り、しかも話が二転三転している・・・ように思える(思われてしまう)が、彼の中では彼女の言う言葉、質問にすべて答えている。しかし普通の人間からしてみると理解不能なので会話にならない。
そして彼らはカップルでもなくなる。彼女から別れを告げられるのだ。こんな人とはもう付き合えない。
彼女が「勉強しなきゃ」といって帰ろうとすると男はこう言う「ボストン大学(2流大学)なのに?」
彼女は言う
「あんたに二度と彼女はできないわ!それはオタクだからじゃなくて、あんたがクズだからよ!」そうして男は完全に振られた。そしてその夜こそ世界最大のSNSサイトの第1歩となる。
この最初の会話劇だけでマーク・ザッカーバーグという人間を簡略的に表現している。天才的に頭が回るのが早いが、とてもイヤな奴。そういった事をたった数分間で、膨大な量の台詞によって、しかも、退屈にならずに見せるのだ。
マークは彼女に腹を立てて「2流大学のくせに」というのではない。彼は軽くアスペルガー症候群なのである。彼には何故怒られたのかがわからない。イヤな奴なのではなく、これは彼の悲劇なのだ。
そしてタイトル。このシーンもまた素晴らしい。ハーバード大学の中を歩くマークをカメラが追う。華やかそうな生活の中、彼は一人で歩いていく。そこに流れる物悲しい音楽・・・ここは彼の孤独感や寂しさを静かに表現している。本作ではフィンチャー流の凝った映像は見られないが、冷静な視線は見事に本作にマッチしている。テンポをコントロールするだけではなく、カット割りに重層的意味を込めた編集の素晴らしさも記憶しておきたい。
映画の中でのマークは感情移入しづらいように設定されている。しかし、最後まで見ているとただ彼を突き放し反感を覚えるだけだったり、「理解できない」となることはないよう、微妙な目線で作られているようだ。
彼は誰かとつながりたいと考えながらも、それができない人間だ。冒頭の会話シーンだけではなく、華やかなパーティーやクラブに関するセリフからもそれは分かる。しかし、彼はその性格や出自ゆえにそこに参加できない。それゆえ、そういったものへの嫉妬や、強い反抗心も持ち合わせている。ウィンクルボスに対する態度はその表れだろうし、既存を打ち破り新しい何かを創造するパワーも、そこから来てると言っていいかもしれない。そして何より、彼は人に認められたいという欲求を強く持ち合わせている人間であるということが指摘できる。エリカと再会した時、彼は何と言ったか。彼がフェイスブックを作ったのは、単に天才だから、欲望があったからだけではなく、こういった様々な感受故だ。
そして彼は成功。大量の利益と<友達>を得た。しかし、同時に彼は失ったのだ。大切にしていた(と思われる)、たった一人の友人までも。
ラストで、彼が一人ぽつんと眺めているもの。彼のフェイスブックの出発点となったもの。それすらも彼はパソコン越しにむなしくキーを押し続ける事しかできなくなった。欲望、嫉妬、反抗心、孤独。誰も共感できなかった男が最後に見せる行為は、ただ誰かに好かれたいというまるでちっぽけで普遍的な感情であった。そしてそんな混濁した感情に、僕は自分でもわからぬうちに涙を流していた。
全てを失った男の、普遍的でありながら革新的な、素晴らしい映画だった。何度でも見返したくなる要素が詰まった傑作中の傑作。
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