リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ゼロ・グラビティ』を見た。

無重力の地獄を抜け出せ
トゥモロー・ワールド』等で知られるアルフォンソ・キュアロン監督7年ぶりの新作。ゴールデングローブはじめ、各所で賞にノミネートされるなど非常に評価の高い作品。主演はサンドラ・ブロックジョージ・クルーニー。また、エド・ハリスも声のみで出演。


メディカル・エンジニアのライアン・ストーン博士(サンドラ・ブロック)は、ベテラン宇宙飛行士のマット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)と宇宙船のデータ通信システム修理に取り掛かっていた。しかし、作業をしている途中でヒューストンから「作戦中止。至急シャトルに戻れ」という指令が下る。破壊された人口衛星の破片が連鎖的に別の衛星を破壊し、その破片がこちらに向かっているのだという。至急シャトルに戻ろうとする2人だったが、破片がシャトルを破壊。ストーン博士は宇宙空間に放り出されてしまう。

※若干ネタバレです。



映画とはすなわち、映像による快楽、興奮、そして恐怖を味あわせる装置であるとするならば、この『ゼロ・グラビティ』は現時点においてその到達点の一つだと言えるだろう。とにかく、全編映像の驚きに満ちた映画である。
この映像の驚きは、見るというよりは「体験」を観客にさせるものであり、それは『トゥモロー・ワールド』と同じ、逃げ場のない緊張感を強いるものである。冒頭、いきなりの超絶な長回しによって私たちは、ライド感覚で宇宙へと引きづりこまれ、そして一気に闇の中へと放り出されてしまう。次にカメラは、酸素が次第に薄くなっていくライアンの顔をアップで捉えた後、なんと彼女のバイザーの中へと入り込み、主観視点へと変貌する。そしてカメラが主観を抜けると、今度は物理的な法則に則りながらライアンを捉えるようになる。ここまでわずか2カットほど。その間に、登場人物と共に私たちも宇宙を「体験」することができるよう、徹底的に計算、設計されているのだ。
その後も一体どう撮ったのかと思わせる映像の連続であり、それについていちいち考え始めると止まらないが、とりあえず縦横無尽なカメラワーク(それでいて帰るべき地球を画面から簡単には外さない画面構成)で映画に恐怖と興奮をもたらした撮影監督エマニュエル・ルベツキの功績は忘れられないだろう。また長回しといった特徴的な部分だけでなくとも、全編にわたって光と闇により構成された映像はどこをとっても驚くべきものであり、例えば人体破損描写にしても、単に残酷であるという以上の「こうなるのか」という衝撃を感じたし、また終盤のある場面で魅せる涙。僕は、これほどまでに涙を美しいと思ったこともない。来年のアカデミー賞では技術系の賞をかっさらっていくと思われるし、これは、そうなるべきである。



ストーリーよりも次々と起こる危機的状況を追体験させることで見ている側を引き込んでいく映画だが、テーマ性は強い。胎児や羊水のイメージが非常に印象的な形で表現されることからも分かるが、これは「再生」の映画だ。
宇宙空間は人間関係のしがらみから解き放たれている場所である。静寂と孤独の中では、誰も傷つけることはない。ライアンはある理由からそんな世界を、はじめ心地のいい場所と感じていた。しかし彼女は、通信の途絶えた孤独な宇宙を漂流するうち、その恐ろしさを実感させられる。つまり無重力とは、どこにも寄り添えない人間の孤独さ、不安定さの隠喩だ。
死と隣り合わせの宇宙でサバイバルする中で、次第に、ライアンは精神的な死の淵から生の力強さを渇望するようになり、一度死んだ人生を脱ぎ捨て、象徴的な再生を迎える。これは、死と暴力の連鎖が蔓延する世界で命の希望をつないでいく『トゥモロー・ワールド』と繋がっているのではないか。どちらも絶対的な死に囲まれた世界だからこそ、はかない「生」が輝き始めるという映画であった。そしてまたどちらも、主人公の「再生」の物語でもある。
本作の原題は『GRAVITY』であり、オープニングとエンディングの2回、この文字は表示される。しかし、それが意味するところは真逆だ。初めこの文字は、これから起こる出来事の恐ろしさや不安を煽るように見えるが(音楽とタイトル、そして本編への入り方が絶妙で超かっこいい)、ラスト、すべての旅を終えた後に見る『GRAVITY』という文字からはむしろ、力強い希望が感じられることだろう。最先端の映像技術によって描かれるのは、人間にとって根本的であり、そして普遍的なメッセージである。



映像のマジックで魅せるということと、そしてテーマ的にも『2001年宇宙の旅』を思い出す部分は多い。しかし、本作はキューブリックのような、人物をほぼ背景とし、哲学を語るような映画ではない。堂々たる娯楽、エンターテイメントとして『ゼロ・グラビティ』は存在しているのだ。そもそもこれは、俳優の映画でもある。サンドラ・ブロックの表情で語る演技と肉体の力は画面に生命力を与えているように感じられるし、何よりジョージ・クルーニー。本作一番の心の拠り所は、何と言っても彼ではないか。頼れるアニキというほぼタイプキャストではあるのだが、それが何よりの安心感に繋がっており、彼の陽気さがより大きな感動を呼ぶ。サンドラ・ブロックジョージ・クルーニーなくして、この映画は語れないだろう。それくらい、人間にスポットの当たっている作品でもあるのだ。



ところで、この映画を見ていて僕が一番似ていると思ったのは『ジョーズ』だ。序盤から中盤にかけてのある部分で、引用かと思わせるほどに似た場面があることもその理由の一つではあるが、一番は「恐怖感」にある。『ジョーズ』はサメだけでなく、海、もしくは水すらも怖いと思わせる映画ではなかったか。そしてこの『ゼロ・グラビティ』もまた宇宙だけでなく、人の動きや、呼吸ひとつにも緊迫感を持たせている。『ジョーズ』を見た後に海水浴に行きたくないと思うように、本作を見た後ならば誰もが「宇宙怖い。行きたくない」と思うだろう。『エイリアン』のオマージュらしきシーンもみられるが、僕は『エイリアン』は宇宙版『ジョーズ』だと思っているので、どちらかというとやはり、『ジョーズ』に似ていると思った。またスピルバーグで言うと『プレイベート・ライアン』も連想させる。あの作品を当時劇場で見た人たちは「まるで戦場にいるみたいだ」と思ったそうだが、本作も「まるで宇宙にいるみたいだ」と思わさせる映像を見せる。そしてどちらの作品も、音(音楽ではない)が重要な要素だと思う。ちなみに、引用の話をあまりするものあれだが、『WALL・E』と同じ消火器の使い方をしていたのは驚いた。



さて、ここまでこの映画を絶賛してきたが、文句を言いたい部分がないわけではない。特に象徴が露骨すぎるというきらいがあると僕は思う。それゆえに、前作『トゥモロー・ワールド』の方が個人的に好きな作品ではある。しかし、それでもこの映画が与える体験は未知のものであり、『ゼロ・グラビティ』が映画の根源的な快楽を与えてくれる傑作であることに間違いはない。一度見ただけでは画面で起こっていることのすべてを確認するなど到底無理なので、できるだけ大きな劇場で、少なくとももう1度は見返したい作品だった。繰り返すが、ブルーレイでも、テレビ放送でもなく、「劇場で」見返したい作品であった。

Gravity

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