リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『アナと雪の女王』を見た。

少しも寒くないわ

創立90周年を迎えたディズニースタジオによる、長編アニメーションとしては第53作目の作品。原作はアンデルセン雪の女王だが、物語は大幅に脚色されている。第86回アカデミー賞では長編アニメーション賞と作曲賞を受賞。声優には、トニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞したことのあるイディナ・メンゼルをはじめ、クリスティン・ベル、ジョナサン・グロフ。そしてキーラン・ハインズ。


生まれつき、雪を作り物を凍らせてしまう魔法の力を持ったアレンデール国王の長女エルサは、妹アナと遊んでいるとき誤って彼女の頭に能力を直撃させてしまう。良心はアナを救うためトロールの住処で助けを乞う。一命を取り留めたものの、アナはエルサが魔法を使えるということを忘れさせられ、エルサは自分の力を制御するよう、警告を受ける。そのためアナは国民からもエルザからも隠され育ち、事故で両親が亡くなったあとも二人は寂しく育った。そしてエルサ(イディナ・メンゼル/松たか子)が成人になり女王として即位するその日、特別に国の門が開き、各国の要人が集まった。戴冠式の際は何とか抑えたものの、その後の舞踏会でエルサは能力を爆発させたしまう。それはその日に出会った王子と結婚すると言いだしたアナ(クリスティン・ベル/神田紗也香)に怒ったためだった。能力を多くの人に見せてしまったエルサは誰も傷つけることがないよう山奥に逃げ込んだが、夏の王国アレンデールの空を明けない冬が覆った。アナは姉を案じ、また国を戻してもらうため、一人で山奥に踏み込むが・・・

・本編に入る前に
本作は上映前に『ミッキーのミニー救出大作戦』という短編が入るのだが、これが最高に面白い。画面が白黒のスタンダードサイズから広がって、色が着き、さらに3D、CGと技術の進歩がこの短編に詰まっている。加えて、映画というものは1秒24コマの静止画によってできているのだというマジックまで描いているのだ。この点において『ヒューゴの不思議な発明』が、大体同じような作品と言えるだろう。僕はディズニー初期アニメを数本しか見ていないが、あのドタバタな楽しさがここにはあったと思う。例えばミッキーの体自体が階段になるという、あの自由自在なおかしさ。あっけらかんとした中にあるブラックさ。というか、生き物を生き物と思わない暴力性。そんなものが再現され、最先端の技術の中で生きていたと思う。
ただ、こんなことを書いていながら僕は3Dでは見ていない。おそらく3Dで見ていたら効果的だったんだろうなとは思ったが、近場では3Dの上映がなかったのだ。これは残念だった。



さて、ようやく本編。『アナと雪の女王』についてだが、これは扉が非常に印象的な映画だった。映画において、扉はたびたび象徴的なものとして登場する。扉が何を象徴するかといえば、それは「精神的に閉じこめられている」ことや、「関係性が分断される」という事が多いように思うが、本作でも例えばエルサが扉の内側に閉じこもっている場面や、アナが扉の内側に閉じこめられる場面などにはこうした意味があるように思う。またそのどれもに共通するのが、無理矢理その扉を開けようとしてもムダだという事であろう。例えば、王位を継ぐため城を開く場面も、アナがエルサの城へ訪ねる場面も、無理にその扉を開こうとしても無駄なのだ。



では何によって扉は開かれるのか。結論から言うと「愛」によって開くのだ。ディズニーでこのように言うと、王子様がキスをして・・・という、古いイメージがまず浮かんでくる。しかし、本作はそうではない。いつのまにか王子様ブランドは失墜し、本作ではついに王子様すらいなくなってしまう(厳密には、「現実には存在しない理想的な王子様」が存在している)。最後に現れる真実の愛についても男女の間にのみ成立するような限定的なものではなく、もっと大きな愛というものに着地していく。それは家族の間に起こる感情であり、姉妹の間にも起こる、性別も種族も超えた「自分を犠牲にしてでも誰かのために何かをしたい」という感情だ。エルサとアナ。アナとオラフ。クリストフとアナ。そしてスヴェンの間柄によって認められる感情なのだ。



エルサは、生まれつき持ったその魔法によって誰かを気付付けることを恐れていた。またたまたま大勢の人の前で能力を見せたがゆえに「魔女」の烙印を押されてしまう。ここで、彼女が作り出す2つの魔物、雪だるまと雪の巨人について少し触れたい。まずは、雪だるまのオラフ。過去、アナと一緒に遊んだときに作られたオラフは「ぎゅっと抱きしめて」が口癖で、「自分を犠牲にしても誰かのために何かしたい」と思う気持ちが愛なんだ、とアナ言う。対して雪の巨人は言葉を持たず、攻撃の心しか持たない。この2つの魔物はエルサの分裂した心を表現している。
オラフが親しげで愛に満ちた存在であるのは、エルサが幼き頃、アナに情愛をもって接していた名残だろう。また「ぎゅっと抱きしめて」と彼が言うのは、エルザがそうしたくても、もし彼女が触れてしまえばそのものを凍らせてしまうからだろう。さらに愛について「自分を犠牲にして」と言うのは、エルサがアナや人々を傷つけないよう、閉じこもった生活をしたことと一致する。
エルサの特性が生み出したもう一つの魔物である雪の巨人は、他人を拒絶する気持ちの具現化であると思われる。エルサの、誰かを傷つけるくらいなら一人になっていた方がいいという気持ちが強調された形が、この巨人である。故に、この魔物とはコミュニケーションが取れない。ちなみに、この雪の巨人に追われたアナとクリストフがロープを伝い崖を降りるシーンは『キングコング』を思い出させる。コングもまた、愛を伝えようとする行為ですら恐怖と受け取られてしまう存在であるため、おそらくこのシーンは意図的なものだろう。
ちなみに余談だが、この魔物についてはエンドロール後の映像が少し気にかかる。そこでこの巨人は、エルサの残した王冠を拾うのだが、これで彼はまさに孤独なキングとなっているのだけれど・・・それはどう考えているのだろうか。



エルサはこのように分裂した思いを抱えつつ、しかし実は根底に、「アナのために」という思いを秘め、雪の中へ消えていった。そしてアナは、旅を通して真実の愛について目覚めていく。この2人が、長い孤独によって生まれた心の氷を愛で溶かすクライマックスは感動的だ。
なぜお伽の国の姉妹の話などが感動的なのかといえば、この物語が普遍的だからだ。まずエルザは、生まれつき持った資質のせいで、「自分は受け入れられないのでは?」と思っている人だ。だからいつも不安で、怯えている。エルサほどと言わずとも、多かれ少なかれ私たちにも似たような経験がないだろうか。
しかしそこから抜け出し、彼女は「Let It Go」を歌う。あの歌が素晴らしいのは、もうそういうことを考えないで、自分のままでいられることの素晴らしさと開放感をひしひしと感じるからではないか。「少しも寒くないわ」と歌うその姿には、誇らしさと力強さがある。あのシーンは、原作である雪の女王で言えば「魔女」と呼ばれる存在になる第1歩だろう。だがそれも、曲の素晴らしさと意味の前には問題とならない。そこにまず感動し、そしてエルサが、そのありのままの姿を先ほど書いたような大きな愛によって受け入れるクライマックス。つまり「生まれつき持った資質」を受け入れられる世界ができたことに、より感動するのである。ちなみに、クリストフとスヴェンもトロールたちに「お前ら仲良すぎ」とからかわれており、やはり本作は、性愛より人と人との間にある愛について強調されているのではないかと思う。



多少、終盤の展開が性急な気がしないわけでもない。初体験のドキドキを、アクションに次ぐアクションで見せた『塔の上のラプンツェル』のほうが全体としては良かったと、個人的には思う。ただ、本作はシーン単体で好きな部分が多く、特にやはり歌、中でも「Let It Go」は思い返しても涙が出る。この一曲で完全にディズニーはブランドとして復権したように思うし、ピクサーとは違い陰影を凝らすのではなく、堂々たる大作のような色使いで魅せる画面の上で次はどんな「愛」を見せてくれるのか。それも楽しみである。