リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『アメイジング・スパイダーマン2』を見た。

親愛ならざる隣人

2012年にリブートされたスパイダーマンシリーズの2作目。監督は引き続きマーク・ウェブで、主演コンビも続投。新キャストとして、ジェイミー・フォックスデイン・デハーンポール・ジアマッティらが参加。前作に続き、日本は本国に先行して公開されることとなった。


高校卒業を迎えたピーター・パーカー(アンドリュー・ガーフィールド)はグウェン・ステイシー(エマ・ストーン)と交際しつつ、スパイダーマンとして街を守るという生活を送っていた。ある日、いつものようにヒーロー活動を行っていたピーターは、マックス(ジェイミー・フォックス)というオズコープ社で働く電気技師を助ける。誰にも顧みられなかったマックスはその日からスパイダーマンを親友と思い込むようになってしまうが、不幸な事故で彼は電気人間・エレクトロへと変貌してしまう。また、時を同じくしてピーターの旧友、ハリー・オズボーン(デイン・デハーン)がオズコープ社を引き継ぐため街へと戻ってきた。再開を喜ぶ2人だったが、ハリー代々続く奇病にかかっており、治療にはスパイダーマンの血が必要だと考えていて・・・。

一体なぜ、時計の内部構造から映画が始まるのだろうと思っていたら、見終わって気づいた。これは、「時間」についての映画だ。登場人物は皆、「時間がない」と口にする。ピーターが軽口として言う。グウェンが急かしながら言う。ハリーが苛立ちながら言う。ピーターの父が悲痛に言う。何故こんなにも彼らは時間について口にするのだというくらい、「時間」と言う言葉は繰り返される。
この「時間」に関して、まず次のように言うことができると思う。ピーターは時間が止まっている男だ。例えば彼は、グウェンの父親だとか彼自身の父親によって、前に進めないでいるのだ。そして皮肉なことに、彼自身の時間が動き始めたとき、彼は周囲の人間の時間を止めてしまう人でもあるのだ。それはヒーローの代償とも言えるが、本作でも、壊れた時計塔内部において、彼は「ある時間」を止めてしまうことになる。時間は、本作において非常に重要な要素となっているのだ。
それを踏まえたうえで、「時間」が重要となっている一番の理由を考えると、それはおそらく、本作が青春映画だからだろう。グウェンは、高校の卒業式でこんなことを言う。「いつまでも高校生活のような青春が続くように思うけど、現実はそうではない」。ピーターは軽口をたたきつつスパイダーマンとして活躍した後、恋人のグウェンと会うような生活をしている。何不自由ない楽しい日々。しかし、いつまでもそうしていられるだろうか。彼は襲い掛かる様々な困難によって、その生活から引き離されることになる。
ここで重要なのは、その困難というのがピーター自身の過ちによって呼び寄せられたものであるという点だ。悪いことをしたわけではないが、彼は若い。どうしようもなく、若い。自信があり調子に乗るが、しかし傷つきやすく、問題を解決する力を持ち得ていない。そんな未熟さゆえの過ちによって、彼は困難にぶつかることとなる。そしてその困難の先に、大きな挫折と、成長が待っているのだ。
人間、いつまでも楽しい青春時代でいられるわけではない。もっと時間がほしいとは、誰もが思うことだろう。しかしそれを自覚できぬまま、いつの間にか何かを失っていくことも多いと思う。ピーターは、まさにそうだったのではないか。立ち止まっている間に、どんどん大切なものを失っていく。そんな悲痛な青春の終りを描くというのは、『(500)日のサマー』を監督した男だけあるなとは思ったし、それと同時にヒーローとしてのを自覚を得るという話を入れてきたのも良かったとは思う。



「とは思う」なんて言い方をしたのは、青春の終わりを描いたところは面白いと思うものの、どうもこの映画、僕にはイマイチと感じられたからだ。前作でも思ったことなのだが、語りがかったるく、いちいち話がもたつく印象。演出が冗長で、流れるように物語が進んでいないと僕には感じられたのだ。またキャラを多く出しドラマを作った分、話にまとまりがない。さらにキャラ多く出したくせに、各キャラにおけるアクションのバランスも悪い。つまり、構成がとっ散らかっているように感じるのだ。せっかくアクションシーンは最高なのに勿体ない。
アクションはもう、ホントに良かった。これはこの映画で一番いいところ。高層ビルの立ち並ぶニューヨークの街中をビュンビュンと飛び回る「姿」を見せるだけではなく、あたかも自分が飛んでいるような見せ方を本作ではしている。でかい画面で見ると本当に没入感があってアトラクションのよう。うねうねと自由自在に飛び回るカメラワークはひやりとしつつ興奮もするし、電気人間エレクトロとのハイスピードバトルは破壊の迫力とスパースローを駆使した映像的面白さで、非常に見ごたえがある。軽口をたたきまくるスパイダーマンのキャラクターも随所で存分に生かされ、アクションシーンは画面全体が生き生きとしているようだった。それだけに、この開放感を分断するようなドラマの構成が惜しい。特に中盤、結構長い間アクションの見せ場が途切れてしまうところはもうちょっとどうにかならなかったのか。



いや、正直に告白しよう。実はドラマの構成に問題があるとか、歪であるとか、それが理由で僕は、この映画が好きじゃないわけではない。本当の理由は、おそらく次のシーンのせいだ。
ピーターとグウェンはまだお互いのことが好きなのに一旦別れるという選択をとる。そしてある日、グウェンに「やっぱりお友達に戻ろう」と言われた後、ピーターはこんなことを言う。「友達になるならルールを作らないと。まず、僕の前で笑うのは禁止。そんな可愛い顔、見せちゃだめだよ」。それに応えて「あなたも、その瞳で私のこと見つめないで」とグウェン。いや、なんだこれ。こんなカップルのイチャイチャを何故、僕は映画館で見なければいけないんだ?とても居心地が悪い。この置いてけぼりの感覚はなんだ?そうだ、これを僕は知っている。かつて感じていた(今もかもしれないが)、自分以外の世界が勝手に幸せになっているような、あの疎外感だ。それを思い出した途端、それまでは歪さを感じてもアクションのおかげでまだ没入していた世界から一気に弾かれてしまったような感じがしたのだ。
確かに、後の展開を考えればこういったいくつかの展開は必要かもしれない。なんとも青い感じが良いというのかもしれない。しかしこの瞬間、ピーターは僕にとってもう、親愛なる隣人などではなくなっていたのだ。お前ら勝手にやってろとしか思えなくなっていたし、みじめな思い出ばかりが頭をよぎってしまったのである。



そういえば前作の感想でも「ストーリーの語りが下手とか以前に、このピーターなんか好きじゃないわ」と書いていたので、どうやら僕には『アメイジングスパイダーマン』というシリーズが向いていないのかもしれない。先に書いた他にも、前作から持ち越した父の秘密がもったいぶった割に対して面白くないとか、グウェンとのドラマに重きを置いてるから長いくせに若干その他のドラマが性急だとか色々問題はあると思うけど(せめてマックスについてもうちょっと描写があれば泣けたかもしれないのに・・・)、何よりまず、僕はこのシリーズが好みじゃないんだなぁと確認できた。面白いんだけどね。それに次回こそはという期待のできる終わり方なんだけどね。でも、とりあえず本作までだと、これは僕の好まない作品なのでああった。
最後に一つだけ言えるのは、ポール・ジアマッティが「俺様の名前はライノじゃーい!!!」と言いながら突進するところで僕は、心が救われたという事ですね。