リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『X-MEN: フューチャー&パスト』を見た。

君らといた未来のために
2000年に始まった『X-メン』シリーズ7作目。監督は2003年のシリーズ2作目から久々にメガホンを取ることとなったブライアン・シンガー。キャストにはシリーズからお馴染みの面々が集結している。


2023年。センチネルというロボットの攻撃により地球は危機的状況に陥り、X-MEN達は迫害と逃走の日々を送っていた。この状況に対し、プロフェッサーX(パトリック・スチュワート)は宿敵マグニートー(イアン・マッケンラン)と共闘し、人類の活路を模索していた。そして彼らは、ウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)の精神を、センチネル開発を決定づけた事件の起こった年である1973年に送ることを決定する。

※若干ネタバレ



14年も同じキャストで続いていることを考えると幸福なシリーズであるとしか言いようのないX-メンではあるが、その最大の功労者は、ウルヴァリンことヒュー・ジャックマンであるように思う。爪が武器だという、ともすれば地味にも見えてしまいそう且つ独特な髪形をしたミュータントを、魅力的なキャラクターとして存在させることに成功させたヒュー・ジャックマンこそ、このシリーズが長く愛されている最大の理由なのではなのではないか。実際、単独主演のスピンオフ作品がイマイチな内容であるにも関わらず2本作られており、人気の高さを証明している。
しかし、そんな幸福なシリーズにおける最大の功労者であるはずのウルヴァリンは、シリーズ中最も不幸なキャラクターなのではないかという気がする。シリーズを通して散々な目に遭い続けたウルヴァリンは、本作でもプロフェッサーXに「君の頭の中を覗きたくない」と言われるほどに苦しみの中で生きているのだ。体の傷を瞬時に直してしまうタフガイは、その心の中にいくつもの傷を、シリーズの中で負っていたのである。



過酷な運命であればあるほど、キャラクターを応援したくなるという気持ちも強くなるものだが、やはり好きであったり思い入れのあるキャラクターには幸せになってほしいとも思うものだ。そしておそらく、そんな思いの結果が、この『フューチャー&パスト』なのであろう。映画版の生みの親であるブライアン・シンガーは、不幸なウルヴァリンに対して、未来も過去もひっくるめてどのような役割を与え、いかなる運命を最後には与えたのか。それこそが本作最大のポイントというか、シリーズを見続けてきた人にとっては大きなお土産となっていたと思うが、反面、思い入れが薄い人にとっては賛否の分かれる展開でもあったのではないか。個人的には半々というか、納得しつつも、これはやっていいことなのか?と思い、ストレートに感動はできなかった。



さて、このように書くと本作はまるでウルヴァリンのための作品に思えるが、実際のところ、本編におけるウルヴァリンは主に狂言回し的な役割を担っている。ストーリーの中心になるのは、若きプロフェッサーとマグニートー、そしてミスティークが織りなすドラマである。
X-メンにおけるミュータントは様々なマイノリティの象徴であり、共存を選択するプロフェッサーと制圧を選択するマグニートーの対立が、『X-メン』の核であるというのはいまさら言うまでもないことであろうが、ここで人間は、そんな自らとは違いすぎる容姿、持たざる能力を持つミュータントを、自らの存在を脅かすモノであると認識している。そのため、彼らを滅ぼそうと殺戮兵器を開発するのだが、この兵器の運用に当たって重要な位置を占めているのがミスティークだ。彼女はプロフェッサーとマグニートーの間で、自分がどうあるべきか苦悩することになる。
ここで面白かったのは、殺戮兵器を開発したトラスク博士(彼が小人であるという点は見逃せない)を、ミスティークが暗殺しようとするとき、その部屋の壁にはドラクロワの「民衆を導く自由の女神」が描かれているところである。この絵画が出てくるのには、2つ理由があると思う。
まず一つ目だが、この絵画は、トラスクの信念として登場していると言える。トラスクはミュータントの脅威にさらさせている人間のため、彼らを導く兵器をつくろうと考えていた。殺戮兵器によってミュータントを排除することを、人類にとって善であると彼は信じているのだ。ゆえにこの部屋は、そんなトラスクの思いが反映されたデザインなのだろう。
しかし、この場面でこの絵画が登場したのは、ミスティークのためであったのだと最終的には分かる。彼女は物語の中で、どのような決断をしたか。そしてそれがどう波及したか。それを考えると、この絵画の持つ真のメッセージが分かるような気がする。そのメッセージとは、民衆を導くのはトラスクやマグニートーがするような、恐怖や暴力によるものではないという事なのではないだろうか。これが、ドラクロワの名画を画面に登場させた理由であろう。



映像表現の面白さについても触れないわけにはいかないなのだが、まずはミュータントの能力描写。冒頭、ファン・ビンビン演じるブリンクのユニークなテレポートが非常にアイデアのある能力と見せ方だった。まさに「通りぬけフープ」。もしくは「天狗の抜け穴」といった感じである。
そして何と言ってもクイックシルバー。難しい問題に左右されがちなミュータントたちの中でも、彼は素直に楽しんでいる。その楽しみの表現が最高潮に達しているのが、「Time in a bottle」に乗せて能力を発動させるシーンである。ここでは観客も彼の体験している世界に参加させられ、驚きと楽しさを味わう。音は普通に聞こえているのか?という疑問はあったが、この場面は本作屈指の見せ場と言えるだろう。
また映像表現の面白味とは、それは何もミュータントの驚くべき能力についてだけではない。例えば画面の進行方向についても面白いと思うことがあった。それは、マグニートーにまつわる部分である。
過去において、マグニートーは驚異的な力を持って画面右から現れ、左方向にいる敵と対峙する。その時に彼が引き連れているのは、未来において画面左側からやってくる殺戮兵器である。そしてマグニートーはその未来でも、左側にいる殺戮兵器に対して、画面右から対応していたように思う。
これはつまり、マグニートーは常に仲間のために戦ってきたのであり、やり方の問題はさておき、ミュータントを守るためという意思は一貫している事を意味しているのではないか。そんな自らの意思を阻むものを、彼は敵とみなす。その変わらなさと、変わったものが現在と過去それぞれのクライマックスで交差する。プロフェッサーを鉄の力で閉じこめてしまうのも、行為そのものは過去と未来で同じであるが、何のために?という部分で明らかに違う意味を持つ。ここの見せ方が、僕は面白いなと感じた。



しかし、強引な力技によって成立させた本作の後では、一体どうシリーズを続けるというのだろう。矛盾や疑問点をひっくるめて、もうこれをやってしまったならば、これで終わりでいいではないか。未来と過去を行き来する『フューチャー&パスト』は、そんな気にさせるような、まさに集大成的作品であった。やはりシリーズ全体とそして本作は、幸福な映画であったと思う。