リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『アメリカン・スナイパー』を見た。

アメリカの「英雄」
クリント・イーストウッド監督最新作。原作はクリス・カイルによって書かれた「ネイビー・シールズ最強の狙撃手」という自伝。主演はブラッドリー・クーパー。第87回アカデミー賞では作品賞・主演男優賞含む6部門にノミネートされた。


テキサス州に生まれロデオの名手となったクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)は、テレビでアメリカ大使館の爆発事件を目にしたことから自分の本当にすべきことを確信し、ネイビーシールズへ入隊する。過酷な訓練を耐え抜いた果て入隊し、愛する女性と結婚した彼の前には同時時多発テロ事件とそれを発端とするイラク戦争が待ち構えていた。正義と愛国心を持って前線へと出た彼のスコープの先には、味方の戦車に近づくイラク人母子の姿があり・・・

※ネタバレ


イラクを主な舞台とした戦争映画だが、同時に西部劇的でもある。クリス・カイルはカウボーイに憧れており、肉体と銃によって自らを誇示する。幼いころから狩猟を教わり、教会へ行き、弱いものを守る強い者(=番犬)であれと父に言い渡される。青年期にはロデオと酒を楽しむ男となったカイルは、愛国心から入隊する。「祖国・家族・聖書」これこそ守るべきものだろうと言うカイルは、やがて戦果を挙げ「伝説」の狙撃手、「英雄」としてまつりあげられる。その悲劇と戦場が引き起こす病という点を見れば、本作には同じく戦争を扱った『父親たちの星条旗』との類似点が多くあると言える。
しかしやはり本作はイーストウッドの西部劇、まずは『許されざる者』に連なる物語であると思う。それは「伝説のガンマン」を「英雄」としてアメリカに帰するようなことはしなかったという点で、そうだと言える。カイルが放つ銃弾の残酷性は、初めて彼が撃つ標的からして際立たっている。伝説と置き換えられる前の事実が、正義のために行った行為が如何に暴力的で、地獄のような光景なのかをまず見せているのだ。
そしてここで重要となるのが、敵兵側にいるスナイパーの存在である。映画は彼の存在によって、カイルとの決闘の様相をも見せる。敵は我々の仲間を殺し、国の安全を脅かす蛮人だ。悪魔だ。何としてでも殺さなければならない。だがこのスナイパーの実情も観客は知るところとなる。彼はシリア人で、子供がいて、オリンピックのメダリスト=「英雄」だった。つまりこの狙撃手は、カイルの鏡像である。狙撃手と初めて出会うとき、その場には番犬も居たではないか。
カイルは幾度の対決の果て、人間を凌駕した腕前によってこの敵を撃ち殺すこととなる。撃ち終えた後、カイルは泣きながら妻に電話し戦場を去ると決意する。ここで彼らは砂嵐に襲われ、這う這うの体で戦地から脱することとなる。その時、画面には地面に捨てられたライフルと聖書(カイルは常に持ち歩いているのに読んでいる姿を誰も見たことがない)が映し出される。これはカイルのものであろうが、同時に、殺されたスナイパーのものかもしれないようにも僕には思えて、何れにせよつまりここで描かれているのは、「英雄」が死んだという事だろう。復讐のため狙撃した彼は遂に銃も聖書も捨て、英雄ではなく、暴力の呪いを引き受ける存在となった。「英雄」の物語を内側から解体するこの作品は、まさに『許されざる者』だ。
他人の目ではなく自ら数々の死を覗きこみ、呪いを引き受けたカイルが退役軍人の力になろうとするのは非常に納得のいく展開であるが、ここで見落としてはならないのは、遂に登場する白馬である。戦地で自らの鏡像を殺したカイルの前に、白馬が現れる。『荒野のストレンジャー』『ペイルライダー』で白馬に乗って幽霊として現れたイーストウッドが思い出されるだろう。息子たちの世話を頼み、二度とは戻らなかったカイルは、かつてイーストウッドがそうであったように幽霊である。最後の遠征より前から、魂は戦地に残したままなのだ。最終的に彼を連れ去った男の、生気のない顔も忘れ難い。



西部劇との類似はこのような物語上の特徴だけではない。例えば敵スナイパーを狙撃した後の籠城戦に関しては、舞台からして西部劇調であるように思う。しかしここで面白いのはその戦い自体ではなく、砂嵐が迫ってくる非常事態だというのに、大仰に見せるわけではなく、ただ静かにそれが迫ってくるように描いているところだろう。これは『ヒアアフター』の津波とも近い感覚かもしれない。
また映像面では、どうも本作は切り返しが多いように感じた。特に印象的なのは妻と電話をする場面だと思う。電話は戦場と祖国を繋いでいる、もしくは侵食しているとも言えるアイテムで、戦地に生きる男は電話を介してのみ家族とまともに話せているようで、しかし戦地に行く回数が増えるたび(先ほど述べたように現実で幽霊化すると)言葉は一方通行になるというのも面白いところである。ここも『ヒアアフター』の、マット・デイモンのキャラクターと関連することかもしれない。
こういった戦地と祖国の切り返しだけでなく、対立の構図は他にもいくつか見られる。例えば個人と英雄。事実とテレビ映像。そしてクローズアップと俯瞰の対比も特徴的だ。
俯瞰に関しては、その視線の変化も面白い。本作はまず俯瞰で街を見下ろすカイルの視線から始まり、中盤でその視線は下へ移動し、見下ろされ狙われる側となるが、最後には対決の視線を持つ。視線が外と内を行き来するのだ。この映画は先ほど挙げた対立の例からも、数々の外側と内側の視線を行き来する作品だと言えると思う。この行き来によって、戦争というものの作用を浮かび上がらせているように思うのだ。



このように本作の面白さを色々と考えてはみたが、実のところ僕は決してこの作品を傑作とは思わない。力のこもった作品であることは当然認めるのだけれど、イーストウッドに期待するのはこの更に上の段階なのであって、個人的にはもしこの作品が、物語終盤の数十分、つまり帰還してからの圧倒的に不穏な描写のみに絞られていたら、もしかしたら傑作だったかもしれないとも思うのである。
しかし中盤の、洗濯物が揺れる屋上でカイル達が狙撃される場面の不吉な予感はなんだろう。そして仲間の死体を乗せた輸送機の中で棺に当たる光の美しさはなんだろう。銃を捨てたカイルがテレビを見つめる視線のなんたることか。こういったショット、シーンがあるだけでも良かったと思うし、政治の道具にされてしまうことに対して残念にも思うのである。

アメリカン・スナイパー (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

アメリカン・スナイパー (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)