リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

最近見た旧作の感想その40~2019年下半期旧作ベスト~

あけましておめでとうございます。今年も当ブログをよろしくお願いいたします。

さて、先日の新作ベストテン記事にて予告したように、2019年下半期に見た旧作の中で特別面白いと思えた作品について、一言程度コメントを添えつつ紹介したいと思います。並びは単に見た順です。ちなみに、昨年の旧作鑑賞数は150本でした。なお、上半期ベストについては<最近見た旧作の感想その38〜2019年上半期旧作ベスト〜 - リンゴ爆弾でさようなら>をどうぞ。

 

 

『A2』(2002)

森達也監督による、オウム真理教を扱ったドキュメンタリーの第2弾。信者の生活や周辺住民、右翼団体との軋轢を描いているのだが、これらの間にある距離感を壁や柵よって表現しているところが面白い。プラカードを持ち大挙して押しかける住民は壁という境界越しに彼らへ言葉を投げかけ、しかし同じ区域で生活していくうち、次第に壁越しの交流も生まれてくる。そしてこの作品が面白いのは常にズレが生じているところで、例えばその住民たちの信者に対する認識のズレであり、信者内でのズレであり、かつて友人同士であった記者と信者のズレなどが見どころになっており、距離感がそのズレをまた強調させているのである。

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ヒッチャー(1986)

ロバート・ハーモン監督。砂漠地帯のフリーウェイで、確固たる理由も提示されぬままひたすら狂気の連続殺人鬼に付きまとわれる羽目になるお話。この殺人鬼を演じたルトガー・ハウアーの存在感が何より素晴らしい。また、いつのまにか、の描き方が最高。留置所のシーンなどに顕著だが、いつの間にか殺人鬼はそこに来ているし、いつの間にか周囲の人間は惨殺されているのである。留置所から逃げる際の入口と出口を同時に捉えたカメラとアクションも凄くいい。ヒロインがかなり非道な方法で殺され、そのあとに主人公と殺人鬼の対決があることにも驚いた。

 

 

『凱旋の英雄万歳』(1944)

プレストン・スタージェス監督。花粉症のせいで軍を除隊になり恥ずかしさから故郷に帰れずにいた青年が、偶然酒場で出会った海兵たちの計らいにより英雄として故郷へ帰還することとなるお話。駅で英雄として迎えられるシーンをはじめとし、とにかく画面への人物の出入りが激しく、しかもそのたびに事態が無茶苦茶な方向へ膨らんでいくのが楽しい。そしてそんな出鱈目の外側で勘違いしあいながら進行するロマンスも、ヒロインを演じたエラ・レインズが魅力的でとても素晴らしい。スタージェスは『バシュフル盆地のブロンド美人』も良かった。

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ルイジアナ物語』(1948)

ロバート・フラハティ監督。ルイジアナの自然に囲まれ育つ少年と石油発掘作業員のお話。まぁ見事な水面の美しさで、その色々な表情に魅せられる。また小舟と油田掘削機の大きさ対比も見事で、少年が機械を見上げるショットなんかは大変素晴らしい巨大感。こういったただひたすらな画面の美しさのほかにも、釣りなどの仕掛けと機械の動きが反復されていくというアクションの繋がりもまた見事である。ちなみにワニ映画としても優雅な動きが見られて最高。

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『バンパイアの惑星』(1965)

マリオ・バーヴァ監督。『恐怖の火星探検』と並び『エイリアン』の元ネタといわれている作品で、物語や巨大人骨に宇宙船などからはっきりとそのことがわかる。それにしてもこの美術は面白い。先行隊の船も巨人の遺跡も変な構造だし、またこれら人工物だけではなく降り立った惑星事態も赤や緑に照らされていて怪奇映画かのような雰囲気が漂っている。そりゃあ死体がよみがえっても不思議じゃあない。黒く襟の高い宇宙服デザインも良い。黄色のヘルメットをすぐ脱ぐことや、オチもこうでなくっちゃという感じでいいなー。 

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『恐怖の火あぶり』(1979)

詳しくはブログに書いた<最近見た旧作の感想その39 - リンゴ爆弾でさようなら>のでそちらを読んでいただきたいと思うのだけれど、死体主観ビンタなどなかなかな陰惨で衝撃的な作品であった。

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『ニュー・ビューティフル・ベイエリア・プロジェクト』(2013)

『東京藝大大学院映像研究科映画専攻第七期生修了作品集2013』に収録されている黒沢清監督作品。前半は柄本佑を段ボールに衝突させたりしつつ彷徨わせることで、後半は『死亡遊戯』のようにどこからともなくわいてくる警備員を三田真央がなぎ倒すアクションを見せることで、シネスコの画面の中ひたすら人物を動かせようとしている作品。ネズミの件なんかまさにそう。また、二人とも父親から受け継いだという設定が行動の起点となっており、三田真央が海をバックにクローズアップで語りかける場面には面食らったものの、神話の登場人物かのような話しぶりから、名前を取り返しに来るのも納得させられてしまう。

DVD 東京藝大大学院映像研究科映画専攻第七期生修了作品集2013

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『ブロンド少女は過激に美しく』(2009)

マノエル・ド・オリヴェイラ監督。素晴らしい窓、扉の開閉で、まずその窓から見える美女の上半身から物語は始まるけれど、それが扉や階段を通して全体像へ繋がったと思っていると、最後には脚の映画になり、片足を上げるショットなんて可愛らしくて粋で最高だなぁと思っていると、いきなりガニ股ですごい突き放しをして終わらせてくる。どのショットも異常に強いが、例えば美女をはじめて見るシーンなどどこも妙に嘘っぽい。それは勿論物語としてなどという話ではなく、画面としてどうも嘘っぽく見えるということであって、それが素晴らしいのだ。

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『紐育の波止場』(1928)

ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督。 とにかく素晴らしい映像美。最初の火夫たちの仕事場からしてとても力のある画面で、闇と煙、そして光の強烈なコントラストが映える。活気ある酒場での群衆とカメラの動きには興奮し、霧に包まれた夜の波止場の美しさ、水面の揺らぎには魅了される。一つ一つ書いていくと終わりが見えないのではないかというくらい、とにかく目を見張るとはこのことかといいたくなるシーンの連続で、サイレント映像表現でも群を抜いているのではないか。ちなみに最後の朝、別れを惜しみ外へと出てきたベティ・カンプソン越しにカモメが三羽着水するのだけれど、それがなぜだか、妙に印象に残った。

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以上が2019年の下半期旧作ベストでした。個人的に昨年はあまり映画に入り込めず、かといってほかに何か打ち込むことができたというわけでもない日々を送っており精神的に参っていた年で、下半期旧作ベストといいつつも例年より低いテンションでの更新となってしまいました。年を越したところで劇的に変わることなど一つもありはしませんが、それでもどうにかやっていけるようになれたらいいなと思いますね。とりあずは面白い映画をたくさん見られたらいいなという気持ちで生きています。それではまた。

今年の映画、今年のうちに。2019年新作映画ランキング

年の瀬でございます。というわけで今年もやります、2019年に見た新作映画ベストテンです。今年鑑賞した新作85本の中から、次点も含めて11本を選びたいと思います。尚、新作の基準は今年はじめて劇場公開となった作品で、リバイバルは除外。またNetflixオリジナルなど配信作品については今年初めて日本で見られるようになったもののみ入れることとします。さて、前置きはこのくらいにして、早速ベストに移りましょう。

 

 

次点 ミスター ガラス

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シャマランらしい奇妙なスケールが冴えわたる快作。目撃する、させる、そして目撃した人をまた目撃するといったことが鏡やカメラ、人物の顔の収め方によって描かれていたと思う。病院の感じが一瞬『エクソシスト3』っぽくて前作に続いていることも好き。ベストテンに入れなかったのは上が詰まっているというより、何か別枠で記憶しておきたいという理由からである。

 

 

10位 わたしは光をにぎっている

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固定カメラでしっかり決められた構図に丁寧な美術、照明、撮影で、特にロングショットが力強い。数多く登場する水については幻想的シーンでの荒々しさからまさしく光をにぎるシーンまで様々な顔を見せている。光もまた同様であって、例えば汽車に乗る松本穂香へのものなど印象的に画面を照らしており、印象的なアクションこそ少ないものの、画面に対する意識を随所から感じ取れる良作だった。語りすぎず省略して進む語り口も滑らか。

 

 

9位 アクアマン

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さすがに説明が多すぎるとは思うけど、一つ一つのシーンがアクション、災害、ホラー、戦争、モンスター、SFとそれぞれジャンル的面白さを備えており、メリエスかといいたくなるいかにも嘘っぽい奇想がCGで目の前に広がっていてとにかく楽しい。ジェームズ・ワンの空間展開力は相変わらず冴えているし、スピルバーグに通じる悪趣味もあったりして好き。

 

 

8位 さよならくちびる

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塩田監督らしく、夜だろうと昼だろうと道がいい。道がいいというのはそれが常にアクションの現場となるからなのだが、さらにまた、3人それぞれの関係性の中でのアクションの反復も心地よく、特にキスをすること、拒否することの繰り返しはそれぞれ身の翻し方が素晴らしい。門脇麦小松菜奈という2人の女優の姿も大変魅力的で、それゆえにいくつかある好きじゃないシーンも帳消しにできる。

 

 

7位 グリーンブック

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細やかな脚本がまずいいのだけれど、それが小賢しさに陥っていないのはおそらく主演の二人による生身の味付けがあるからだ。図体から指先への意識に至るまでの振る舞いと、その差から生まれるやり取りがすこぶる魅力的。また帰属性という複雑な問題を運びつつも社会性を大げさに主張することはなく、ご立派なお題目の傍で軽やかに走行する上品さが素敵なのである。

 

 

6位 さらば愛しきアウトロー

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監督の前作は贅沢な時間の流れる作品だったが、今作は手際いい編集で進行し、俳優と彼らに当たる照明の贅沢な味わいを楽しめる心地よい作品だった。また夜の光、特に公衆電話を使うシーンは最高。常にそうであったし、これからもそうあり続けるというロバート・レッドフォードの在り方がかっこいい。

 

 

5位 殺さない彼と死なない彼女

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歩きをはじめ、被写体から少し離れた位置からの長回しのやりとりが多い。これは二人の間だけで成立してるコミュニケーションの形を外側から捉えるためだと思うのだけれど、それゆえカットを割ることが効いている。例えば撫子の一方的な告白を見続けた八千代の主観や、「リボンは似合わない」と2度口にする鹿野の目線は、決してそれらが一方通行ではなかったと我々にもわかるから感動的なのだ。桜井日奈子の走り姿も最高。「未来の話をしましょう」は細田守版『時をかける少女』のテーマにも通じるキラーフレーズ。

 

 

4位 ゼイ・シャル・ノット・グロウ・オールド

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アマゾンプライムにて鑑賞。WW1の記録映像に色付けをした映画で、ドラマではなく戦地での衣食住など生活様式や戦闘風景についての細部が語られている。爆撃の緊張や揺れ、凄惨な死体とまったく同列に、例えば寝床の確保であるとかネズミやシラミの被害、死体の浸かっていた水でもなんでも利用してまで紅茶を飲もうとする執着、そしてトイレ事情などが語られているのだ。その徹底したミクロの視点が素晴らしい。

 

 

3位 マリッジストーリー

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編集に特徴がある映画で、ところどころ人物のアクション、例えば立ち上がる・振り返るといったような行動を細かくつなげていくことにより、夫婦それぞれの思いが浮かび上がってくる。白眉は中盤の喧嘩シーンだと思うけれども、しかし全てのシーン照明やカメラ位置は非常に周到で、なんてことないシーンにも力が宿っている。そして個人的には怖いレイ・リオッタの登場が嬉しかったので3位。

 

 

2位 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

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タランティーノの中でも『デス・プルーフ』に次ぐ傑作。ブラッド・ピット演じるスタントマンが長い長いドライブの果てトレーラーハウスに着くあたりですっかり心掴まれてしまった。このように、基本移動によってエピソードは心地よく繋がれていくのだが、そのどれもはおおむね弛緩しており、しかしだからこその幸福が生まれている。もちろん農場の異様な緊張感と西部劇的風景にも興奮した。素晴らしい。

 

 

1位 ホットギミック ガールミーツボーイ(及び『離ればなれの花々へ』)

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『ホットギミック』については年明けに個別記事を書くのでそちらでより詳しく触れたいと思うけれど、異常に過剰で歪な作品が、そのことを一切否定せず全速力でエモーションに振り切ろうとするパワーに圧倒された。この振り切り具合はもはやベストかワーストかはよく分からないが、とにかく一番としか言いようがない。なので今年はこの作品と、『21世紀の女の子』の中の一つをベストに挙げたいと思う。

 

 

<まとめ>

以上が、2019年新作映画ベストでした。この中で最後まで外そうかどうか迷っていたのは9位『アクアマン』と8位『さよならくちびる』で、『蜘蛛の巣を払う女』『バーニング 劇場版』『トイストーリー4』『帰れない二人』『工作 黒金星と呼ばれた男』『マチネの終わりに』『主戦場』と迷っていました。10位はというと、良い作品であるのは勿論のこととして、5位、1位と合わせ、2010年代にデビューした日本映画監督の作品を配置したかったので外せなかった。ほかにも『マイル22』『運び屋』『多十郎殉愛記』『ハンターキラー 潜航せよ』『COLD WAR あの歌、ふたつのこころ』『嵐電』『アイリッシュマン』『ドクタースリープ』などが良かったですね。今年は中島貞夫監督の新作やイーストウッド主演作など、もうないだろうという作品を見ることができ、もうないだろうということでいえば、『アベンジャーズ/エンドゲーム』もその点において価値のある作品だったと思います。

さて、今年も未見の映画がたくさんある中での選出となりました。北海道ではシアターキノが大規模で後悔されない作品、例えば『ワイルドツアー』や『苦い銭』のような新作からリバイバルファスビンダーなどを上映してはいるものの、金曜日の夜に1回だけという形態での公開が多く、都合上見れないことのほうが多い。せめて土曜日にしてほしい。

さて、最後にワーストについてですが、今年は最もがっかりした作品のタイトルのみ上げようと思う。ワースト1は、『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』。僕は今はそれほどスター・ウォーズのファンではないけれど、小学校3年生の時にエピソード1が公開されたこともあり、思い出深いシリーズではある。当時はグッズもたくさん買っていた。そして社会人になった2015年に公開されたエピソード7は楽しく見られたし、8についてもこれはこれでと受け入れられたのだが、9に関しては全く受け入れられない。スター・ウォーズとしてなどという問題の以前に、語り口が下手すぎてまじめにみる気にならないのが最大の問題点だった。

旧作についてはいつも通り年明けに書こうと思います。そして『ホットギミック』についてもなるべき正月休み中に書きたいとは思っていますので、更新頻度が少なすぎる当ブログですけれども、来年もまたよろしくお願いします。それでは皆さん。良いお年を。

 

 

『アイリッシュマン』を見た。

懐柔たちのいるところ 

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マーティン・スコセッシ監督最新作。ロバート・デ・ニーロアル・パチーノハーヴェイ・カイテルら豪華キャストに加え、ジョー・ペシが約10年ぶりに俳優復帰。原作はチャールズ・ブラントによるノンフィクション『I Heard You Paint Houses』。

 

1950年代フィラデルフィア、トラック運転手をしていたフランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)はマフィアのボス、ラッセル(ジョー・ペシ)と出会い、数々の仕事を引き受けていく中で徐々に信頼を得るようになっていく。そしてある日、フランクは全米トラック運転手組合のトップであるジミー・ホッファを紹介され、彼の右腕として働くこととなる。フランクとジミーは仕事仲間としてだけではなく家族ぐるみで付き合う仲となるが、マフィアとジミーとの関係は次第に変化していき・・・

 

 

以前、『沈黙』について書いた際、スコセッシらしさについて触れており(『沈黙 -サイレンス-』を見た。 - リンゴ爆弾でさようなら)、『アイリッシュマン』についてもいくつか当てはまる部分があるため本作もやはりきわめてスコセッシらしい作品であることは間違いないない。しかし、デ・ニーロやジョー・ペシといった出演者から『グッドフェローズ』を連想してしまうのはおそらく間違いであって、むしろ『沈黙』の後の作品であることのほうが重要だと思う。 確かに、ドキュメンタリーの精神で撮られた『グッドフェローズ』と同じように本作も回顧録を原作とし、ナレーションを多用しつつ、人物たちの生活様式を描写しながら多くの情報が通り過ぎていくスタイルは似ているともいえるけれども、決定的に違うのはまずスピードであって、その差は互いの冒頭からもうかがえる。『グッドフェローズ』はソール・バスによる、車で走り抜けていくようなクールなタイトルクレジットだったが本作は全く様子が異なっていて、『アイリッシュマン』の車はゆったりとした走行でかつタバコ休憩やタイヤ交換に集金などたびたび立ち止まっている。描かれていること自体は『グッドフェローズ』、ひいてはスコセッシらしくとも、描き方がかつての実録ギャング映画の方式ではないということを、車からして示唆しているのだ。

 

加えて、本作では「懐柔」という要素が重要となっている。白眉ともいえよう登場人物が一堂に会するパーティーを筆頭に、裏社会に生きる男たちはたびたび懐柔を試みる。これはスコセッシの過去作にもみられた要素であり、例えば『レイジング・ブル』での八百長がそうであり、『エイジ・オブ・イノセンス』は社交界に懐柔させられる物語ともいえよう。そして『最後の誘惑』、『沈黙』はその要素が色濃く出ているのだが、本作に最も近いのは、表面上やさしい口調で改宗を諭してくる『沈黙』であって、実際本作で最も重要な要素となっているのは、あちこちで耳打ちしあい、状況をコントロールし、「懐柔」することなのである。これがまた『グッドフェローズ』と大きく違う点で、つまり生活様式を描くというスコセッシらしさは同じであっても、あくまで兵隊でありルフトハンザ事件のような強奪を主とし金を作り出すことこそ仕事であった『グッドフェローズ』に対し、『アイリッシュマン』の登場人物は兵隊より上の立場にいる人間同士のやり取りこそが仕事の本質となっているため、作品のスピードにも差が生まれるのである。 特にジミー・ホッファが登場してからはいかに彼をコントロールし、懐柔するかということに焦点が当てられている。

しかしフランク・シーランの懐柔はことごとく失敗している。彼はラッセルの口利きによって、パンとワインのみならず夫婦のように指輪を分け合い、裏社会へと取り込まれたのだけれども、その仕事として彼が懐柔しなければならなかった二人の人物との関係は、悲劇的な結末を迎えている。一人は勿論ジミー・ホッファで、フランクは彼を射殺しなければいけなくなる。そしてもうひとりは、娘のペギーだ。ペギーはフランクにも、ラッセルにも懐柔させられずに彼らのもとを去る。だがそれはあらかじめ予想された出来事だ。何故ならば、フランクがペギーを見るよりもはるかに、ペギーがフランクを見るという視線のほうが多いからである。癇癪もちでパラノイア気味の、実にスコセッシらしいキャラクターのジミーは、常にフランクに、ラッセルに見られている。俯瞰的に見られていること、それに気づいていないことというのは、言い換えれば自らが審判されていることに気付いていないということなのだ。だからジミーが懐柔されず、意に沿わないときには排除されるだろう。一方フランクの動向を盗み見ていたペギーは、彼女の審判によって、家族を守るためにやったなどというフランクの言い分に耳を貸すことなく去る。ここでまた前作の『沈黙』が、ただひたすら異国の地で自らの信仰に対する弾圧を見せつけられる視線の映画でもあったことを思い出し、『アイリッシュマン』も視線の果て敗北し、それでもなお続く人生についての物語、つまりいくつもの過去作と同じスコセッシらしいテーマへとたどり着いていることがわかる。

 

ただし、スコセッシはここで彼の作品らしさという軸のほかに、映画史的な軸を追加している。それはアル・パチーノとの初組み合わせからも当然予期されていたことだがつまり、『ゴッドファーザー』を引用して家族の物語に仕立て上げようとしている点だ。この引用は、例えば湖畔にたたずむジミーの姿だとか、道路沿いのレストランで殺しをするシーンであるとか画面上にも表れているけれども、最も重要なのは扉の使い方においてである。『ゴッドファーザー』は殺しに関与したことへの疑念の抱く妻と、ドンとなったマイケル=アル・パチーノの間に断絶が生まれていることを、閉まる扉によって示していた。それが『アイリッシュマン』では妻も友も死に、娘とも縁を切られたフランクが、それでもそこに誰かが訪ねてくることを期待してか、半開きにした扉のショットで幕を閉じる。この扉の主題はおそらく『捜索者』から直接的に続いているものであろうが、はじめそれは家の中と外とを分ける扉であったものの、『ゴッドファーザー』では部屋の扉へ、そして『アイリッシュマン』ではもはや家ではなく老人ホームの扉へと変化しているという点も興味深く、『ゴッドファーザー』のマイケルが愛娘の死後、我が庭でひっそりと老衰するのに対し、フランクは家も家族もないところで死なずにいる。原作から『アイリッシュマン』というタイトルに変更した本作がどれほどジョン・フォードを意識しているのかはわからないが、数々の映画で「死にゆく」アル・パチーノの起用に関しては、「生き残る」盟友デ・ニーロに対して死を身にまとうギャング映画というジャンルに対しての敬意であり、自らを傍流としてではなく本流の歴史の中に組み込むという意識があったのではないか。

もうひとつ、スコセッシはフィルムの修復・保存を行う財団を立ち上げるほどのシネフィルではあるが、作品の特徴としてとしては古典にみられるスマートさよりもむしろ語りの効率とはほとんど別に映像の修飾を多用している印象が強く、その技量をいかんなく発揮している作品こそ、スコセッシのパラノイア感覚を最も効果的に引き出しているように思う。しかし冒頭で書いたように『アイリッシュマン』においてはその手法が抑えられ、重厚であろうという意図が見えているのだが、それは本作がおそらく、時間の長さをこそ描こうとしているためであろう。フランクの人生は激流に乗るようなものではないし、一つのことに執着し追い求めるようなものでもない。ラッセルやジミーと連れ添った、時間の長さこそが彼の人生だ。思えば、白眉たるパーティーで彼が表彰されるのはほとんど生涯の功労に対してであろうけど、そこではラッセルとジミーからそれぞれ違う品を贈呈されており、また彼は当然ペギー=家族をまともに見ていないものの、一方のペギーはやはり、彼を見ているのだ。そしてそれらの行為も当然であろうと納得させられてしまう人生の歩みにこそ重きを置いているから長くならざるをえないし、その長さを体感させるために映像としても重みを必要としたのであろう。これを思えば、ラッセルが逮捕されるとき背後に『ラスト・シューティスト』の看板がかかっているのも当然である。

 

このようにして『アイリッシュマン』は重厚さを湛えているわけだが、しかしそれが作品をより上質なものへと昇華させたかということについては疑問が残る。確かに本作を見れば、老境を迎えたスコセッシと重なるような、深みとでもいうべき良さがあるといえるのかもしれない。しかしすでに書いてきたように、本作で描かれている内容はいつものスコセッシとほとんど同じである。それは悪いことではないし、どの作品もそれぞれに色が違って面白いことに間違いはないけれども、思うに、スコセッシ最大の武器とは、老成しないことではないか。例えば最新のインタビューを見ても、出演者と比べて誰よりも早口で誰よりも口数が多いままであって、また『アイリッシュマン』においても、面白いと思うのは語りとして非効率であっても見入ってしまうテクニックやリズムではないか。どっしりと構えた風格ではなく、目まぐるしい非効率で魅せる。それがスコセッシ最大の武器であって、この分野であればいまだに数多くのフォロワーの追随を許さない存在だと信じているからこそ、『アイリッシュマン』についてはあまり大げさにほめる気にはならないのである。

 

アイリッシュマン(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

アイリッシュマン(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 
アイリッシュマン(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

アイリッシュマン(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

ちなみに本作で採用された顔だけ若返らせる技術については、顔はともかく動きがどうしても老人にしか見えず違和感が大きかったので、成功とは言い難たかったように思う。

テン年代ベストテンに参加するよ

映画テン年代ベストテン - 男の魂に火をつけろ! ~はてブロ地獄変~

 

2010年から2019年。人生で最も楽しかった大学生活から、就活浪人を経て、友達も話相手もいない片隅の田舎で死んだような社会人生活を送っている現在までの10年間のベストテンである。

思い返せばこのブログを開設したのが2010年11月のことであって、年々更新頻度は減ってきているものの、細々と続けてきた。その間に映画の趣味も微妙に変化し、以前ならば一瞥して吐き捨てていたような作品に目を向けるようになり、しかし反対に、以前ならば喜んでいたであろう作品に興奮しなくなったりもしている。

さて一部では社会人になると趣味に費やす時間が減るという人もいるようだが、僕の場合一人でいる時間があまりにも長くなったため、鑑賞数に関してはむしろ増えたくらいである。もちろん、生活圏が文化貧困地帯であるため大した本数は見れていないし取りこぼしも多いのだけれど、それでもやはり10本は難しい。ただどうせ何を選んでも心残りが生まれてしまうので、勢いで決めてしまったほうが楽なのであろう。というわけで早速10本に移りたいのだが、最後に一つ。桐島、部活やめるってよは鑑賞直後会話不可能になるほど泣き腫らした作品であり、当然、ベストテンに入れるべきである。だがこの作品の場合、個人的な思い入れが強すぎてほかの作品と並べたときにどうも浮いてしまうように思えたため、今回はあえて外した。

 

 

テン年代ベストテン>※順不同

アウトレイジ ビヨンド(2012年 北野武監督)

かぐや姫の物語(2013年 高畑勲監督)

Seventh Code(2014年 黒沢清監督)

ハッピーアワー(2015年 濱口竜介監督)

風に濡れた女(2016年 塩田明彦監督)

ソーシャル・ネットワーク(2010年 デヴィッド・フィンチャー監督)

プロメテウス (2012年 リドリー・スコット監督)

女っ気なし (2013年 ギヨーム・ブラック監督)

ラン・オールナイト(2015年 ジャウム・コレット=セラ監督)

キャロル (2016年 トッド・ヘインズ監督) 

 

次に、最後まで迷った作品について以下に書いておく

『恐怖』『哀しき獣』『エクスペンダブルズ2』『ムーンライズ・キングダム』『死霊館』『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』『ちはやふる 上の句』『ジェーン・ドウの解剖』『リズと青い鳥』『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』『きみの鳥はうたえる

これらをあれだこれだと入れ替えている中で、なんとなく自分の中でしっくりくる10本を選んだ。

スピルバーグやスコセッシを入れなかったように、北野武黒沢清といったもともと大好きな監督の作品はあえて外そうかとも思ったのだけれど、アウトレイジ3部作は初めて劇場で見た北野武映画だったし、テン年代は女優の映画という印象の強かった黒沢清については前田敦子という女優の存在込みで入れておこうと思った。

ほとんどスクリューボールコメディな『風に濡れた女』と、画面の力で圧倒してくる『かぐや姫の物語』は常に予想を超えてくるところが素晴らしい。2本とも全く違う方法で女性の闘争を描いているともいえる。

濱口竜介は2本しか見ていないもののどちらも傑作で、しかしその面白さの正体が一体なんなのか、見ても書いてもつかみきれないように思うところが特に好き。

ソーシャル・ネットワーク』ほどテン年代にふさわしい作品もないように思うが、だからといってその評価は時代に左右されるものではない。内面を避け、驚異的な速度で流れていく出来事がいつのまにか映画的物語を生んでいるように思うからこそ本作は傑作なのである。

物語もビジュアルも間違いなくリドリー・スコット節な『プロメテウス』は、しかしなにより、脚本の穴などあえて無視して荒唐無稽と悪趣味に突っ走る清々しさこそ素晴らしい。

ギヨーム・ブラックなどの、公開館数も少なければレンタルもないような作品を見る機会は限られており、実に歯がゆい思いをする。簡素でありながら豊かな時間の流れる『女っ気なし』は、地方民を嫉妬させるには十分すぎる傑作だ。

シンプルな物語を止まらないアクションの中で描き切る『ラン・オールナイト』は、夜の風景やキャラクターの造形、時にトリッキーでありつつも的確な画面など、忘れ難い魅力を持った大変面白い活劇である。

『キャロル』のような作品をこんなに好きになるとは、見る前までは全く予想もしていなかった。素晴らしい演出の、スリリングな脚本の、大変優れた演技の、とても美しい作品であって、共感ではなくほとんど憧れといってもいい感情を抱いている。あまりに感化されしまったためはじめて写真集(ソール・ライターの)を買ってしまったくらいだ。

 

 

以上、テン年代ベストテンでした。

Early Color

Early Color

 

 

最近見た旧作の感想その39

『恐怖の火あぶり』(1979)

 

幼いころに受けた火あぶり虐待の影響で、大人になっても母親の支配から抜けられない青年・ドニーは母の死をきっかけに精神の病みっぷりを拡大させ、街ゆく女を屋敷に誘い込んでは焼き殺す恐怖の殺人鬼になる、というお話。トラウマお母さんものとでも呼ぶべき系譜の作品ではあるが、主人公の病みっぷりに個性的な味わいがある。

冒頭、ドニーが職場から帰ると母親はソファに腰かけたまま死んでおり強いショックを受けるのだが、次の瞬間、「これで自由だ、好きなことをしていいのよ」という天からの声を聴く。ウキウキで音楽を流し、椅子に飛び乗って浮かれるドニー。しかし楽しみもつかの間、今度は死んだはずの母の叱り声が聞こえてくる。開始早々分裂的行動を見せる上、二つも幻聴を聞いてしまうという精神の混濁ぶりにまず驚かされる。その後ドニーは天からの声に従い、街で出会った女を「罰する」ため家へ呼び込んでは焼き殺していくのだけれど、そのむごい殺害方法より衝撃的なのは、やはり彼の病み歪んだ精神である。

 

彼は焼き殺した女たちに服を着せ、一つの部屋の中で各々椅子に腰かけさせている。しかも相変わらず幻聴は絶えず、女たちのあざ笑う声を聞いて激昂。「僕を笑うな!」といって焼死体にビンタをかます。幻聴はもとより、まるで生きているかのように死体を扱うという点に狂気を見て取ることができるのだけれども、ここでカメラはなぜかビンタされた側、つまり焼死体側の視点になってグラっと揺れるのだ。こと切れる直前ならばまだわかるものの、完全に真っ黒こげになった女の視点でしかもご丁寧に揺れてみせるのはどう見たっておかしい。

さらに、死体をしかりつけた後彼は背後に気配を感じる。振り向くと、閉めたはずの母の部屋のドアが開いていてその隙間に人影を見つける。しかし大して反応はせず、ただ恨めしそうに見つめ、とぼとぼと自分の部屋へ歩き出すのだ。幽霊譚であれば恐怖するべき場面であろうが、ドニーにとって生きているだとか死んでいるなどという肉体の事実はもうほとんど無意味となっているため恐れはなく、ただ「そのまま黙っていろ」とでも零しそうな表情だけを見せるのである。ドニーの異常性はおぞましい火刑ではなくむしろ、それに比べれば些細な、日常的振る舞いの中にあるのだ。

 

彼が住む家の造形も素晴らしい。やや古めかしくも立派に聳えるその屋敷は玄関を開けるとまずランプや彫刻の置かれた広間が目に入る豪華な空間となっているものの、少し奥へ歩くと壁紙は剥がれ落ち、置物も汚れている。2階へと続く階段の先はさらに異様な雰囲気で、地上とは分断された空間として存在している。実際母親ははじめから死体となってるため2階はいわば死者の住処であり、廃墟ほど崩れてこそいないものの広い空間に対してうらさみしく、さびれた感触に支配されている。そしてドニーの寝室はそんな死者の住処のさらに上にあって、しかも部屋といってもそてはほとんど屋根裏でせせこましく、まるでここに押し込められたかのようだ。母の死後もその幻聴に押さえつけられ、いくら女を殺しても幻聴が増すだけな彼は自由に屋敷を占有することもできず隅へ追いやられたまま彼は地上から遠く離れて生きているのである。

 

さてその後ドニーは同僚に連れられクラブへと行くも、母のトラウマを思い出してしまいせっかく手を取ってくれた女性に対し文字通り火をつけてしまう。その場から逃げ出し、「これでいいの、あの女が悪なの」という妄言に導かれ道で出会った2人組の女を家に連れ込むがそちらも失敗。ドニーは屋敷ごと炎に包まれてしまう。狂気にとらわれた殺人鬼とその狂気を生んだ屋敷が燃え落ちるというのは、ホラーとしても納得の展開といえるだろう。このようにしてこの衝撃的でおぞましい話は終わる。

このように残酷かつ精神の病みが極端な『恐怖の火あぶり』は、それだけで十分に素晴らしい作品ではある。しかし個人的に本作のことを忘れ難く思うのは、クラブから走り去る彼の悲しみをたたえた表情を忘れることができないからなのだ。自分のことを気にかけてくれる同僚に誘われ、おそらく初めて自分で買ったのであろう服を着てクラブへ出かけるも、結局ドニーはまともに人とかかわることができない。このとき彼は、自分がもはや普通に世間とかかわることができないのだという絶望を感じたのではないか。薄っすらと涙を浮かべているのは殴られた痛みのせいではなく、はっきり世間との断絶を突きつけられたからではないのか。ドニーはここで狂気ではなくいわば普遍的な孤独と悲しみを、一瞬だけ見せている。その点においても忘れがたい魅力を持っていると、僕には思えたのであった。 

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『旅のおわり世界のはじまり』を見た。

YOUは何しに

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黒沢清監督最新作にして自ら脚本を手掛け、オール海外ロケを敢行した作品。主演は前田敦子。共演には加瀬亮染谷将太柄本時生のほか、ウズベキスタンの俳優、アディス・ラジャボフら。
 
 
バラエティ番組のリポーター藤田葉子(前田敦子)は巨大な湖に住む幻の怪魚を探すため、ウズベキスタンに訪れていた。しかし、大魚は簡単には見つからず、急遽予定を変更し名物料理のリポートをするも準備不足で米は半生。精一杯明るい声で番組を盛り上げようとするも、もともと取り繕っている葉子の気は滅入るばかりで、唯一のよりどころは恋人とのラインのみ。言葉も通じない異国で誰とも交わることのない葉子は一人街を出歩くのだが・・・

 

 

異国の男に連れられ舗装されていない道路をバイクで走る冒頭から、これは『Seventh Code』の続編に違いない、と心を躍らせていたのだが、しかしいくら待てども活劇へと向かう様子はなく、それどころか、いかなる地であろうとも黒沢清作品らしさをしっかりと画面に刻み付けていた過去作と比較し、本作は異例なほど「らしさ」から距離をとった作りになっている。人物の躍動に従いカメラが動き出そうとも、不自然な強風にカーテンが揺れようとも、寂れた建築物が出てこようとも、ばたりと床に伏せる人物が出てこようとも、照明が不自然に変化しようとも、それが黒沢清の作品を見ているという確かな感覚までは到達しないのである。だからはじめ、統御された画面から生み出される黒沢清空間にこそ震え上がり、感動し、そして映画的な快感を味わっていたファンとしては、肩透かしを食らったような気分さえしたのであった。

 

 

 しかし、それでもやはり本作は黒沢清作品であって、そのことは主題といえるであろう、迷子の描き方において見て取れる。前田敦子演じるリポーターの葉子は、撮影クルーとともに異国に来ているものの、一人取り残されるような状況が多い。例えば冒頭がそうだし、続く湖でも葉子は一人船に取り残されたままクルーの判断を待っており、またたとえ地続きの場所にいようとも、やはり彼女は輪に加わることがない。そもそも仕事の内容として彼女はカメラに映る側として一人、孤独にこなさなければならない状況を強いられているのだが、しかしそれだけではなく、撮影途中に一人はぐれてしまうことすらある。さらに仕事後も彼女は一人、異国の地理も言葉もわからぬまま街へと出て、奇異の目に晒されながら結果観光などとは無縁の時間を過ごすのである。

この仕事はもともと、彼女にとって満足のいくものではなかった。テレビリポーターは本来やりたいことでもなければ、将来のためにやらなければならないこととも思えないし、カメラマンのような諦観も持てず、ディレクターのように金というルールによって自分の存在を確立させることができていないがために、葉子は積極的にこの場に馴染むということができないのだ。だから序盤、車内で2度着替をするという行為も、思い返せばそれは番組の要請であること以上に自分を覆い隠し着せ替え人形的に仕事を全うするという姿勢に思えてきて、しかもそれは決意ではなく、儘ならなさからくるものであろうことが、彼女の着替えを異国の人たちが遠目で眺めているという、居心地の悪さから感じ取れる。この居心地の悪さの中をさまよう迷子の姿こそ、本作の主題といえよう。

 

 

葉子は、必ずまっすぐ歩きはしない。大通りを横断して、路地裏に地下、または道ともいえないような斜面を下るのだ。キアロスタミのジグザグ道か、もしくはベルトルッチの迷路か、はたまたロッセリーニの行く当てのなさか、とにかく彼女は目的もなくひたすら歩き、そのうちに迷子となっていく。ここでいう迷子とは、帰り道が変わらず困っているということではなく、目的地もなくひたすら歩き続けては疲れ果てる姿のことであり、そして街を歩くとき、そこでは通行人の目線が絶えず彼女に向けられていて、決して好意的ではないその視線は、葉子の異物感を際立たせている。

事実、葉子は所在無き異物として画面に収められている。それはすでに述べたように異国で向けられる奇異の目や一人孤立する姿からも感じ取れるだろうが、最も強調されているのはヤギを放つエピソードにおいてであろう。鎖につながれたヤギを買い取り野に放ったその直後、そのヤギはもう誰のものでもないからという理由で、元の持ち主に連れていかれそうになってしまう。何とかヤギは助かったものの、葉子は自らの思いがここではまるで通じないことを知るだろう。撮影クルーでさえも理解してくれないと孤立するだろう。広大な大地の中、背後に並ぶ電信柱とともにポツンと立ち尽くしている葉子の姿がロングショットで捉えられる。これはまさしく黒沢清らしいショットであって、例えば『CURE』や『岸辺の旅』などでもそうであったように、異物は垂直の違和感として画面に登場する。葉子はここで、萩原聖人浅野忠信のように、異物として画面内に存在しているのだ。とはいえそれは、葉子自身の幼稚でニンゲン失格な態度によって引き起こされている問題でもあって、それゆえ彼女は迷子にならざるを得ない。そして分かり合えない他者とは、実に黒沢清らしい話でもある。

 

 

さて、そんな葉子は迷子の果てにあるものを見つける。まさしく迷宮のようなナボイ劇場をさまよい舞台へと足を踏み入れた彼女は、そこで夢である歌手としての姿を幻視する。この迷宮はほかの迷子とはやや様子が違い、画面は葉子の足取りを追うのではなく、ジャンプカット気味に装飾と差し込む光や色が微妙に異なる6つの待合室を繋いでいくため、まさしく迷宮に入り込んだような錯覚を覚えるのだ。だからこの歌唱シーンはその導入からほとんど夢でしかないのだけれども、しかし歌唱シーンは、最後にもう一度訪れる。

それは長い旅と迷子の果てにたどりついた山頂で行われる。ここでも葉子はクルーから離れ一人となるものの、しかしその姿は迷子ではないだろうということが、オレンジのジャンパーを脱ぎ捨てて山頂へと向かう姿からもわかるだろう。ここで葉子は、テレビに映る側としてでなく、もしくはカメラを向ける側でもなければ、幻視された姿でもない。つまり見る/見られるという他者を介した関係性から切り離され、自分は今この場に確かに存在しているのだということを、まるで世界に向けて高らかに告げるかのごとく歌いだし、タイトルは結実する。

 

 

さてしかし、このように物語を追ってみたところでやはり本作を称賛することはできない。何より本作は迷子の映画にもかかわらず、実際のところ動きの魅力には乏しいと思えたのである。確かに、前田敦子は異物として歩くだろう。だがそこに、過去作で見られたような統御された画面以上の快感があるとは思えなかった。というのも、ここでの動きにははなにより驚きがなく、現地で撮れたものをそのまま提示するという態度か、もしくは前田敦子という女優の存在感の面白みにとどまっており、新境地として楽しめるほどの魅力が備わっていないのだ。しかも、どのシーンも異国の触感を感じ取るというよりはやはり低体温で、ふとした瞬間に黒沢清的触感が戻っているのだ。このような、「らしさ」から離れようとしては引き戻される駆け引きを楽しむという鑑賞態度もあるのかもしれないけれど、しかし結果的にどちらでもない分、画面の快感もやはり中途半端だ。また例えばナボイ劇場に入るシーンや葉子がはぐれるシーンなどはいかにも説明的で退屈なショットまで挟んでいて愕然とさせられる。

さらに、ただ座って会話をしているというシーンも多すぎやしないか。例えばナボイ劇場建設の経緯をビルの屋上でとうとうと語るシーンなど、こんな場面を見るなんてと悪い意味で想像を超えてしまっていた。唯一の救いは、屋上に設置されたアーチ状の骨組みらしきものが、どこか過去作でも感じられたような禍々しい空気を発していたということなのだけれども、結局これも「らしさ」とのせめぎあいである。もちろん「らしさ」こそ正しい道というわけではないのだから、どうせなら次回作は本作のラストを受けて全力で引き離しにかかってほしいようにも思う。

 

最近見た旧作の感想その38〜2019年上半期旧作ベスト〜

旅行記も書き終えたところで、恒例としている半年ごとの旧作ベストについて更新したいと思います。今年も相も変わらずの更新頻度となっておりますが、鑑賞数も例年に比べ少なありますが、その中でも、これは、と思うものについていくつか、順不同で書き連ねていきます。

 

 

俺たちの血が許さない(1964)

鈴木清順監督作品。Amazonプライム・ビデオにて鑑賞。序盤、仕事をさぼって家で休んでいる高橋英樹家へ長谷百合が尋ねてくるシーン。何の前触れもなく唐突に銃声が画面を貫いたかと思うとお盆の上のコップが割れるという流れには説明どころか真実味も必然性もない。しかしだからこそ出鱈目さが楽しくもある。そしてこの室内シークエンスは小林旭演じる兄と高橋英樹演じる弟の対比が自在なカット割りによって表されておりそれもまた楽しい。さらにここでコミカルに使われている扉という装置は劇中幾度か繰り返され、時に男女の障害として開け閉めされ、時に秘密の部屋へ通じていたり、時に籠城のため封鎖され、そして開け放たれる。そもそも冒頭の襲撃も2度ドアノブに手をかけ室内へ入り込むところから始まっていたななどとも思いだし、丁寧な積み重ねがあることに思い至る。またその丁寧さはアクションシーンでも発揮されており、画面の広さを流れ良く変えることで気持ち良いアクション空間を生み出しているし、ラストではカメラを移動させつつ左から右への疾走という他清順作品でも見られた快感を、陰鬱さの漂う場面であろうとも感じ取ることができる。というわけで清順の基本的な巧みさがわかりやすく、ストレートに楽しめる作品だとは思うのだが、しかしぶっ飛んでるとしかいいようのない場面もきちんとあって、特に小林旭が車の中で高橋英樹に秘密を打ち明けるシーンでスクリーンプロセスにより合成されている映像が、なぜか荒波。土砂降りの中を走る車というよりこれはもう海上を走っているようにしか見えない。

俺たちの血が許さない

俺たちの血が許さない

 

 

 

ザ・ベビーシッター(2017)

マック・G監督、Netflix配信作品。「優しくてちょっとエッチな俺のベビーシッターが我が家で悪魔崇拝者の集まりを開いてるんだが」という感じの大変楽しい作品。ポップすぎるテンションのまま、ほとんどギャグとして繰り出されるハードな人体破壊も素晴らしいし、「男らしくあれ」とけしかけつつ半裸で追いかけてくるマッチョはまるでデッカードを追いかけるロイ・バッティのようで笑える。悪魔崇拝者一同との対決はそれぞれ違ったシチュエーションにて行われているのだが、各場面・状況に合わせた仕掛けや演出が施されているあたり、観客を楽しませようというサービス精神を随所から感じ取ることができるのである。また彼らは主人公の少年に対し結果的に成長を促してもいるのだ。というわけできっちり面白がらせてくれる良心的な一本。

 

  

『ズーム・イン 暴行団地』(1980)

 黒沢直輔監督によるロマンポルノ。何がすごいかというのは序盤の惨劇を見ればすぐにわかるだろう。不審者に付け回される少女とその二人の伸びる影、助けを求める声に反して一室一室消灯されていくマンション、有刺鉄線、目のアップ、工事現場を駆け抜ける足、そして性器への着火からジャングルジムの死体に至る凄惨な暴力の流れはまるでジャーロ映画のようであり、全編このような調子で異様に暴力的なのである。そしてこの点において特に素晴らしいのはズタ袋から女を引きずり出し生きたまま焼却炉にブチ込むというシーンで、その行為のヤバさももさることながら、しかしなにより印象的なのは扉である。言い過ぎかもしれないが、この扉が『悪魔のいけにえ』の、かの有名な扉を思い出すほどなのだ。しかもこんな風に思って見ていると、最後には主人公とすれ違った妊婦が突然発火しのたうち回ってばたりと倒れるという異常な恐怖シーンもあって、こちらは『スポンティニアス・コンバッション/人体自然発火』を連想せずにはいられないだろう。だだっぴろい平地にポツンと置かれたドラム缶のある風景も最高。

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『不変の海』(1910)

D・W・グリフィス監督による短編。漁に出たまま帰らぬ夫をひたすら待ち続け、身ごもっていた娘が大きくなり、その娘が青年に求婚される年となり、家を出てまた一人になっても、まだひたすら変わらぬ海の先を見つめ待ち続ける妻の様を描いた非常に美しい作品。夫が旅立っていった海の、その先を感じさせる実際の風景と人物配置が素晴らしく、ほとんど同じような画面でありながら、しかし確かに長い年月が経ったのだと感じさせる時間経過表現も見事だ。また、待ち続ける妻の姿と並行して見知らぬ土地に漂着していた夫の姿も描かれており、このとき彼らの視線や進行方向は左右ちょうど逆、つまり空間を超えて向かい合わせになるよう映し出されていているのだが、だからこそ、最後に二人が再び出会うときの感動も増すのではないか。

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宮本武蔵(1961)

何度も映画化されている吉川英治原作の『宮本武蔵』のうちの内田吐夢監督版。第一部ということもあり派手な見せ場が多いわけではないが、俯瞰と仰角を利用した撮影によって画面には高低差のダイナミズムが生まれている。また時にカメラには滑らかな水平の動きがつけられていて、これらが特に素晴らしく映えているのは、吊るされていた木から降ろされた武蔵が姉を探して岩山を下りおり、人気のない牢を探し回るシーンであろう。アクションの捉え方もよく、例えば序盤、おばばらが戸を開けると外で乱闘が始まろうとしているシーンも画面に層があって最高。

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やくたたず』(2012)

三宅唱監督。とにかく人物を動かすことにこだわっていて、3人の高校生がだらだらと歩いたり、一列に並んだり、バラバラに動いたりしているだけではあるのだけれども、しかしそれが妙に魅力的であって、この良さは近作『きみの鳥はうたえる』にも通じる、監督の特徴といえよう。そしてこの魅力とは役者の身体の魅力であり、登場人物たちと時間、空間を共有できるからこその魅力である。またロングショットでの長回し、例えば動いている車の荷台に飛び乗るシーンでは小さなスペクタクルまで生まれており、ここには周到なカメラのパンもある。また車が盗まれる下り、写真を撮る下りでは集合と解散の動きが心地よく、前者は各方向へ動き出し画面外まで消えていく立ち回りが、後者は少し切ない余韻が残る。

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『楽日』(2003)

 蔡明亮監督。例えば映画館内の廊下、このただの廊下がただひたすら素晴らしいとはいったいどういうことなのかよくわからないが、しかしやはりハッとするほどに魅力的なのでである。またスクリーン横の小さな扉から今まさに上映されている胡金銓監督の『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』を見上げるシーンは、不思議にスペクタクルだ。これらをはじめとした映画館という場所の素晴らしさこそ、本作の素晴らしさである。廊下や階段にトイレに映写室、スクリーンと客席、そしてそこに集う人間たちの素振りが大変に面白く、ほとんどセリフがないにもかかわらず笑えもすれば泣けもする。個人的にこういった映画館の記憶はほとんどないけれど、それでも郷愁を誘われるし、刺さるものがあった。不意に登場した揺れる布と意外な幽霊話にも心惹かれる。

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ホフマン物語(1952)

 マイケル・パウエルエメリック・プレスバーガー監督。嘘っぽい表現の極致とでもいうべき美術と色使いが楽しめるオペラで、平面をうまく使いつつ奥への意識も促すことで視覚的に楽しい空間が生み出されている。床に書かれた階段をダンスしながら降りていくシーンなどはだまし絵的な錯覚が見事である。本作は3つの恋物語により構成されているが、特に面白かったのは一番最初の、人形娘に恋をするパート。このパートでは最後にその人形がバラバラにされてしまうというシーンがあり、予想外に残酷なフェチズムの楽しみまで満たしてくれるのである。

 

  

『ドーターズ・オブ・ドラキュラ/吸血淫乱姉妹』(1974)

ホセ・ラモン・ララツ監督。光差し込む森の風景や陰影の効いた古城が大変魅力的である。またセックス・ショックシーンのアグレッシブぶりも忘れ難いものがあり、イメージとしての吸血鬼らしくなくナイフで男をめった刺しにして殺害するシーンには気合を感じるし、欲に燃えた淫乱吸血姉妹が男をほっぽり出して百合行為に励むというすっぽかしっぷりもツボ。一応のヒロインらしい女性が地下へ迷い込む場面は格子や地下通路などを捉えた撮影も良いし、序盤と終盤で血の付いた手が窓ガラスに張り付くという反復があるのも気が利いている。そして「ほら終わったよ、とっとと帰りな」とでも言いたげな放り投げ感のあるラストにも味わい深いものがあった。

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『女っ気なし』(2013)

ギヨーム・ブラック監督。公開されてからずっと見るチャンスのなかった作品だが、この度めでたくDVDが発売された。ひと夏のバカンスを描いたこの作品にはまずロケーションの良さがあって、ロングショットでとらえられる海辺街の風景や、客としてやってきた母娘の泊まるアパートが面する路地、緑色のバルコニー。賑わってはいるけれども少し寂れていて、浮足立つというよりは、少し軽やかな休暇の雰囲気を感じさせてくれる光景が実に心地いい。そしてそこで繰り広げられるのは、いかにも女性に縁のなさそうな男の、もどかしい恋愛である。会話はそれほど多くはないけれども、やり取りの中に豊かな魅力がある。そしてその交流をより豊かにしているのが編集の素晴らしさであって、特に終盤、ついに明日帰るとなった夜に、娘が男の家を訪ねてくるシーンは白眉だ。同じベッドに入り寄り添う二人の位置が朝になると逆転しており、そして娘は言葉なくそっと優しい光差し込む部屋から出ていく。男は彼女が出ていくと、さっきまで娘のいた枕元に頬をつけ、ささやかな感触を惜しむのである。実に簡素でありながら、描くこと、描かないことの選択により豊かとしかいいようのない画面を生み出しているのである。そしてまた、街から遠ざかるバスの中で寄り添う母娘の美しいショットで作品が終わっていることにも大変感動した。わずか58分の中に忘れ難い愛おしさが詰まった傑作。

ギヨーム・ブラック監督『女っ気なし』DVD

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というわけで以上が上半期に見た旧作のベストでした。このほかにもヒッチコック『見知らぬ乗客』における距離の変化と見ることの不気味な面白さ。ブレッソン少女ムシェットの淫靡な雰囲気。きちんと家が(溶けて!)沈むジャウム・コレット=セラ蝋人形の館の正しさ。DVDレンタル解禁となったキアロスタミ桜桃の味の道たち。船の到着と横移動に列車の到着と強風、桟橋や水辺と風に揺れる緑という画面の美しさが何よりも素晴らしいゴダールの決別』。編集の技に魅せられるワイズマン『肉』ルノワール素晴らしき放浪者のあまりの奔放で自由な魅力などなども忘れ難く、どれも素晴らしい作品だったと思います。

上半期はこのほかにもファスビンダーなど、今までなかなか見ることのできなかった作品のレンタルが解禁になったりと映画好きにとってはありがたいこともありました。今回は間に合いませんでしたがペドロ・コスタの『ホース・マネー』もその一つで、これからどんどんいろんな作品が簡単にみられるようになることを願うばかりですね。もちろん名画座にもまた行けるのであれば行ってみたいという気持ちもあるので、下半期には何とか金を作って旅行したいと思っております。